* わたしに欲情してください


5.


 
 何だか最近は体調が優れない。
頭が重い所為かと思っていたらそれが日増しに強くなって、奥歯の辺りが痛むんだと気付いた。歯は万病の元と言うくらいだから、頭に響いていたのも不思議ではない。急いで歯医者に行くと、痛みが出るような虫歯は無いと言う。そんなはずはない。こんなにも悩まされているのに。この勢いだと、明日には口が開かなくなるかもしれない。そう思って別の歯科に掛かったが、やっぱり同じことを言われた。無駄に初診料とレントゲン代を支払う羽目になる。しかもまだ、何も解決していない。歯が原因じゃなかったのなら、最初に感じていた頭痛の方なのだろうか。脳の病気なら、尚更厄介だ。翌日は半休を貰い、脳神経関係の総合病院に行ってみた。CTやMRIといった大層な検査を受け、出た結果はやはり白。もう、どこに行けばこの痛みが消えるのか判らなくなった。気休めに、ロキソニンが処方される。飲まないよりは幾分かマシにはなったが、原因の根本を叩いていない状態で痛みだけ紛らわせても気分的にはちっともスッキリしない。このままだと、今度はストレスで胃がやられそうだ。
こんな時にも月に一度の生理はやって来た。体の不調が重なって、更に重く感じる。けど、生理が来るということは、健康な証拠なのかもしれない、と初めて前向きに考えられた。これで月経まで止まってしまえば、もっと深刻な病気を疑いたくなるだろうから。
「お集まり頂いた皆さん、今日は足元が悪い中、我々未の歩みは寅に翼の第三回定期ライブにお越しいただきまして、ありがとうございます」
 拍手をする。脳が、いつもと違う浮遊感を体感している気がするが、薬の所為だと言い聞かせる。ライブバーでのドリンクチャージは、念のためソフトドリンクを注文した。
 外は、小雨が降っていた。雨が降ると頭痛が増す、という人も世の中にはいるが、私は元々天気に体調を左右される質ではない。むしろ、雨か晴れかどちらが好きかと言われれば、雨だと答える。カンカン照りの真夏の空の下を歩くより、傘に守られた空間で小雨の中を外出する方が体力の消耗は少ないと思うからだ。それに、雨の日というのは気候が程よい。夏場は少し涼しくなるし、真冬の雨は暖かいものだ。
 だから今日は、外出しようと思えた。最近の、正体不明の体調不良が何なのか。解決しないのなら、少しでも気を紛らわせたかったのもあるし、具合が悪いからと言って寝てれば治る類のものでないのは、この一週間で立証済みだ。
 前回も観に来たこのお店は、バーやライブハウスと言うにはちょっと照明が明るすぎるような気もした。照度の調節は出来ないらしく、まるでファミレスやファーストフード店のような照明で客も出演者も平等に照らしている。それに、ステージらしきステージは無く、店の一角に音響機材を置いただけの簡単なもの。もっと言うと、バーカウンターもお座成りな造りで、ディスプレイされたお酒の瓶が並んでいる訳でもなく、後ろは木目調の壁紙が広がるただの壁。殺風景なものだ。おまけに炊事場はカウンターよりもっと奥の、バックヤードに行かなければ無い様子だった。どうも、店全体がしっくりきていない。
 でも、この店を選んでいる理由はそんな見た目で判る部分ではないことは、以前広代さんから聞いていた。客のキャパが二、三十人程度の小さなライブバーに備え付けられている音響機材はスペックが低く、使い勝手が悪いものだ、と。手入れがされていないせいか、音の入りが悪い事なんてしょっちゅうだし、店に機材が揃っていなくて出演者が持ち込みで運び入れなければならない所もあるらしい。そうなると、会場の箱代だけではなくレンタル機材の料金も別途発生する。うちはそんな大層な楽器を使っている訳じゃないけれど、せっかくお金を払って観に来てくれているお客様がいるんだから、トラオのピアノの音だけは一番いい音で聴いて貰いたい。と、広代さんは語っていた。ここは、音響機材の充実さで選んでいるみたいだ。
 出演者は、未と寅のふたりの他にも二組居た。ギターソロの若い男の子と、フルート奏者の女性ススキノチグサさん。前に打ち合せで名前が挙がっていた三十五分企画、というバンドはトラオの予想通り来ていなかった。男問題の絶えないアイちゃんというキーボード奏者を近くで見てみたかった気もするので、少し残念だ。
 演奏は、ギターソロ、フルートソロ、ピアノとカホンの演奏と続き、最後に全出演者のセッションがあった。合わせの練習が一回しか出来なかったから上手くいくか判りませんが、という苦笑いの前置きをトラオがしてから流れ出したメロディは、聞き覚えのあるフレーズ。彼らのオリジナル曲ではない。何だっけ、この曲調。そう思っていたらサビに入り、誰かが確変来たぁ、と相槌を入れた。そうだ、聞いたことがあると思ったら、一昔前に流行ったパチンコの人気台の曲だ。これを、カホンのリズムに乗ったギターとピアノと、そしてフルートの旋律で聴く日が来るなんて思いもしなかった。なかなか面白い企画を考えたものだ。
 イベントがお開きになり、出演者たちは入り口付近で来てくれたお客に挨拶を交わしていた。久しぶりに会った友人か、声を上げて抱き合う人もいる。私はふたりとは頻繁に会っているし、特に喋ることも無いので早々に店を出ようとしたら、トラオに肩を掴まれた。
「いつもの店で待ってて。すぐに合流するから」
「打ち上げ、なんやないん。ウチ、出演者でもスタッフでもあらへんけど」
「打ち上げやけど、ただの飲み会やから。来るやろ、」
 一瞬、返答に詰まっていたら、トラオはすぐに別のお客に呼びかけられて奥に戻ってしまった。
 本当に、私が行ってもいいものなのだろうか。行ったら、他の出演者やスタッフに空気の読めない女だと思われるのではないだろうか。そんなことを、今更ながら悩む。いや、いつもの打ち合せという名目の飲み会とは訳が違う。いつもは未と寅のふたりだけだが、今日のは違う。音楽仲間のみが許された集まりのはずだ。そんな処にのこのこ現れたら、ピエロなんじゃないか。それに、ここんとこずっと体調が優れない。おまけに今日は生理も重なっている。ロキソニンをいつもより多く飲んでいるため、アルコールすら飲めないんだから。
「あ、車掌さんや。今日、未と寅のライブやったんでしょ。どうでした」
 カランカラン、と古風な音を鳴らしながら扉を開けた。色とりどりのお酒の瓶が並ぶ、鮮やかなバーカウンター。少し落とした照明の雰囲気。見慣れた店内の景色。いつもの、バーテンの男の子が声を掛けてくれる。
「車掌やないって。鉄道勤めやけど」
 いつもの返しをする。
 落ち着いた。さっきまで迷っていた気持ちが小さくなっていく。見慣れた景色に行動パターンというのは、こうも人を落ち着かせるものなのか。
「楽しかったですよ。後からみんな、打ち上げでここに来るみたい」
 彼らがやってきたら、その場の雰囲気を見て決めればいい。場違いな感じがしたらすぐにお会計をして立ち去ればいいし、案外お客みんなを交えての飲み会のノリなら、話を肴に痛みを紛らわせる材料にすればいいのだ。だから今は、深く考えないようにしよう。
 注文した烏龍茶を飲み終わらない内に、ライブ終わりの面々は顔を見せた。トラオに、広代さんに、ススキノさん。人数は三人と、案外少ない。聞けば、他の人たちは終電の時間が早いということで、先に帰ったらしい。
「私も終電、早いんですけどね。せっかく久しぶりに会えたんやから、一杯だけ飲んでいこうかなって」
 ススキノさんはふわっと微笑んで、私の隣に座った。トラオと広代さんは、カウンターの横並びで彼女の向こう側にいる。打ち上げと言っても、この雰囲気なら私が居ることに違和感はなさそうだ。
「演奏、とても素敵でした。フルートなんて普段聴く機会ないから新鮮でしたし」
 ひとまず、挨拶がてらの言葉を挟む。ピンクのワンピースに身を包んだ白い肌の彼女は、二十代のように見える。若い。先日の打ち合わせの様子では、ススキノさんは広代さんの知り合いらしかったから、もっと年上の人かと想像していたが、どう見ても若い。時折、静かに笑いながら広代さんと言葉を交わす彼女を横目に見ながら思う。
「あの。お姉さんお若く見えますけど、おいくつなんですか」
 と思っていたら、相手から振られた。どうも相手も、私が広代さん紹介の連れだと思っているらしい。若くもないんですよ、三十一ですし。と言うと、同い年だということが判明した。
「ススキノさんは、広代さんのお知り合いなんですか」
 お前こそ何者だよ、と内心突っ込みつつ聞いてみる。業界人なんだから、彼女たちのツテはいくらでも考えられる。この場に一番相応しくないのは私自身だ。
「私、ふたりの専門学校時代の同級生なんですよ」
「広代さんとバンド組んでたんやで、この子」
「そうそう。おれはドラムで、ススキノちゃん当時はボーカルやっててなぁ」
「止めてやめて、黒歴史やから、あれは」
 さっきまで静かに笑っていた彼女の声が、急に大きくなる。あまり触れてほしくない過去の話題みたいだ。
「もう、本当にボーカルやってたのは道を踏み外した感満載で……。卒業してからは原点に戻って、フルート一本に絞ったんです」
 ススキノさんは、中学、高校と吹奏楽部に所属していたらしい。専門学校ではボイストレーニングを受講していたが向いてないことに気付き、今は毎週末、結婚式場で讃美歌を演奏している。
「やっぱ、若い頃はバンドに憧れがあったからな。おれもススキノちゃんも、何となく集まっただけのメンバーやったわ」
「彼は、バンド活動に興味無かったんですか」
 カウンターの一番端で、カニクリームコロッケを頬張っているトラオに目を遣る。ススキノさんは声をワントーン上げて語った。
「トラオくんは別格なんですよ。サポートメンバーとして各バンドから引っ張りだこで」
 彼は凄いんです、とススキノさんは力説した。楽譜なんか無くても一度聞けば旋律を奏でられるというトラオは天才気質で、同級生たちからも一目置かれていたらしい。同級生と言っても授業が被らなければそれほど親しくなる機会もない専門学校。そこで、トラオと広代さんが出会ったのは、やはり彼らのバンドのサポートキーボードとして呼ばれたことがきっかけだった。
 確かに、トラオのピアノは素人目に見ても一歩抜きんでているのが判る。音楽のこともピアノのことも全く判らない私ですら、この人はきっと上手いんだろうな、と酔わせるだけの音を奏でているのだから。
 梅酒のソーダ割りを飲み切ったところで、ススキノさんは店を後にした。新しい出会いというのは、然して大きな刺激もない日常を彩る上でいいことだと思う。新鮮で、清々しい。それが、自分の勤め先の業界人ではなく、全く異業種の人間ならなお一層、素晴らしい。
結婚式場で讃美歌を演奏する、同い年の女性。全寮制の理系高校に進み、自動車整備の専門学校へ通い、鉄道会社に勤める私にとっては、普通に生活している上では絶対に出逢うことの出来なかったであろう人物だ。
今日、ここに来てよかった。ちょっと迷ったけれど、打ち上げに参加出来て良かった。もっと言うと、ふたりの主宰するライブを観に行けて良かった。
そんなことを思いながら本日何杯目かになる烏龍茶に口をつけていると、店の奥からピアノの旋律が聞こえて来た。振り返ると、トラオの周りに何人かが集まっている。お客の空いて来た店の奥の座敷に、ケースから出したキーボードを広げているようだ。
「あなた、ピアノ上手ねぇ」
 お客のひとりであろう女性が、驚いたように言う。
「そりゃあ、僕はこれでお金貰ってますから」
 呆れた様にトラオが返している。ていうかリカさん、前に教えましたやん。と口を尖らす彼に、彼女、リカさんはあっけらかんとした悪気のない声音で、そうだったっけ、と笑った。
 誰だろう。随分親し気な様子。それに、彼女の様子からして今日ライブを見に来ていたお客が合流して来た、というわけでは無いのが明白だ。
「どうもぉ。お姉さん、飲んでるぅ」
 ただの酔っ払いのノリで、彼女は先ほどまでススキノさんが座っていた隣の席に腰かけた。胸まである長くストレートな黒髪。タイトなインディゴブルーのミニスカートに、デニムのジャケット。年は、私よりもちょっと上くらいか。案外、広代さんと同い年くらいかも知れないけれど、薄化粧の割に色気があって、美人な女の人だと思う。
「あの子が急に呼び出すから来てみたら、飲み会やってたんだねぇ」
 ふふ、と目を細めて笑った彼女は、あたし飲み会大好きなの。と無邪気に言った。
「こら、人妻。いたいけな少年を誘惑するんじゃない」
「……広代さん、私、少年じゃなくて三十路の女です」
「やだぁ、あたしもう人妻じゃないわよぅ。リコンして二年は経つんだから」
「ハイハイ」
 またこの人は酔っぱらって。といったような、慣れた対処で広代さんはリカさんをあしらった。
 この人は、一体どういう関係の知り合いなのだろう。トラオとも広代さんとも顔見知りみたいだけれど、彼女はふたりが音楽をやっていること知らない。私だっておかしな人脈なんだから人のことは言えないけれど。改めて、この人たちの交友関係はとてつもなく幅が広いんだな、と思い知らされる。
 聞いて聞いて、とリカさんがせっついてくる。
「虎弥太がねぇ、日曜日に海遊館へ行こうって、あたしを誘うのよ。可笑しいでしょ」
「コヤタって、」
 一瞬、誰の話をしてるのだろう、と思った。けど、リカさんに教えられるよりも早く、それはトラオのことだと気付く。千歳虎弥太。トラオの、本当の名前。
「何で海遊館なんですか、この時期に。どっちかっていうと、花火大会とかの方がいいんじゃないですか」
「ねぇ、夏なんだし。でもなんか、最近荒む出来事があったから、生き物見て癒されたいらしいわよ」
 頭の奥が、キリキリと痛み出した。横目でチラリと時計を見る。そろそろ、ロキソニンの効果が切れ始めているのかもしれない。
「いいですね、私も癒されたいです」
 本当に、癒されたかった。目の前で、酔って頬を染めたリカさんにではなく、奥でキーボードを鳴らすトラオでもなく、カウンターの中程でバーテンと自家製梅酒の話をする広代さんでもなく、勿論、イルカやクリオネやジンベイザメでもなく。
 本名で呼ばれるの、厭や言うてたくせに。
私には、性的欲求は無くなったって、言うてたくせに。
前に家に来た時は、ただサカリの時期が過ぎただけなんだと思っていた。けど、違った。サカリの対象が、変わっただけだったんだ。
スタイルが良くて、素朴な美人で、トラオから見たらうんと年上で、快く遊んでくれそうな未亡人。はっきり聞いたことは無いけれど、きっとリカさんはトラオの好みのタイプの女性だ。
「だいじょうぶ、顔色、悪いみたいだけど」
 僅かに顔を顰めた私に気付いたリカさんが、声を掛けてくれる。ちょっと虫歯に障ったみたいで、と無難な答えを用意する。これ以上話題が広がらないようにして、早く帰路に着きたい。
 彼女は、何も悪くない。
ただ、奥歯の辺りが軋むだけだ。




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