* わたしに欲情してください


4.


 
 誰かが突然訪ねて来る、という環境は私にとってはありがたいことだった。
何故かというと、常に部屋をキレイにしておかねば、という適度な緊張感とプレッシャーを自分に与えることが出来るから。十余年のひとり暮らし。普段、誰にも見られることのない部屋の中。同居人がいない家というのは、ちょっと気を抜くと極限まで散らかって行き、ごみ屋敷へと変貌を遂げる危機がいつでもそこに横たわっていることを私は知っている。それは、他の誰でもない、私自身が経験したことだからだ。学生時代。初めてのひとり暮らしをした学生寮は、卒業するまでの二年間でこれでもかというほど物に溢れて、文字通りごみ屋敷と化していた。貧乏学生だったため家具らしき家具がなく片付け辛い家だったこともあるが、引っ越しの時運び入れた段ボールが開封されないまま二年間部屋の中央を占拠し、その上に板を引いた机とも呼べない場所で食事を摂り、カビだらけになった浴室の片隅で何とかシャワーだけ浴びる生活を窮屈に送った。就職が決まって部屋を出る時はまさに逃げるようにその部屋を後にしたのだ。
誰かにとやかく言われる訳でもなし、誰かを不快にさせる訳でもなし、となると、気が緩んで引き締まる機会が一生やって来ない。これまでも、これからも、ズボラな私がひとり暮らしを続けていくには、適度な緊張感を得て部屋の清潔感の維持向上のために「突然の訪問者」というアクシデントが必要不可欠なのだ。それを行う人間は、常識人とは呼べないのかも知れないけれど。
「蛇の目さんの家って、なんか知らんけど落ち着くわぁ」
 相変わらず我が物顔でソファーに寝転んでいるトラオが言った。テーブルの上に置いた五百ミリリットルのチューハイの缶に手を伸ばす。その傍には、彼の買ってきた乾物と私が先日こさえて冷凍しておいた鶏の味噌煮込みが並んでいる。
「適度に散らかってるからやない」
 私もつまみに手を伸ばしつつ、缶ビールを啜りながら相槌を打つ。突然の訪問という行為自体に頓着はしてないものの、一応気を遣ったのか私の好きなサッポロビールを差し入れで持って来てくれていた。
「散らかってへんよ、キレイやんか。僕ん家なんかもっとごちゃごちゃしてるで」
「実家って、そういうもんでしょ。家族何人おるんやっけ、」
「両親と弟の四人。そんなに多い方でもないのに」
 実家から出たことないから、ひとり暮らしの人の家に遊びに行くんが楽しいんよ。と、前にバーで話していたのを思い出す。週末のイベント出演やライブ、ピアノ教室に、早朝のバイト。毎日忙しそうにあくせく働いてはいるが、三十路手前の男の平均収入には程遠い。イベントやライブのギャラは大抵一日一万円。日当の派遣バイトで考えると妥当な額に思えるようなこの値段も、交通費や食事代は含まれていない。辺鄙な場所まで赴くと、交通費だけでチャラになることもしばしばあるという。だから羽振りのいい近所のパブやキャバクラ、ホストクラブのショーに出演して日銭を稼ぐ。昔は多少の見栄やプライドがあって、出演するイベントを選り好みしていたが、それでは食っていけない。どんな形でもいい。とにかく今は名前を売って、ツテを作る時期だから。と、彼は語っていた。目標は、売れることではない。音楽で、飯が食えることなのだ。
トラオは親の脛を齧って生きているわけでは無い。が、売れてるとは言えない音楽中心の生活をしていて生計を立てられるものなのかと疑問に思っていたので、実家暮らしと聞いて納得した。
「今日はピアノ教室の帰りなん、」
「いんや、今日は子供の家の方」
あ。と思った。どうというわけでもないが、あぁ、と。
そこは、私も彼と同じような立場で行っていた場所であり。でももう、辞めてしまった場所だった。
ランパブでトラオと話した時は、仕事の時間と合わなくなって辞めた、と言ったが本当の理由はもっと別のところにあった。児童養護施設のボランティアは、掃除婦が欲しいわけでは無い。子供たちと接しながら一緒に何かを学べるような人材を募集していたのだ。けど、私には何もなかった。トラオみたいにピアノを教えながら一緒に弾くことも出来ないし、バスケやバレーや野球なんかの球技を教えられるほど得意な種目もない。しかも、実のところ、子供自体が苦手なのだ。教えるといった大義名分も持たない状態で、会話できるほどのスキルは当然持ち合わせていない。目も当てられない。
ずっと目標としていた、大人になったら子供の家に携わりながら生活をすること。それがしたくて飛び込んだのに、私が役に立てることはそこにはなかった。ボランティアは歓迎されるかというと、そうではないのだ。むやみやたらに外部の人間に出入りして欲しくない、という職員の本音が露骨に見えて、居場所を失くした。いや、元々私には、あそこに居場所なんか無かったのだけれど。
「ミンドゥルレの子たちは、ヤル気があって楽しそうでええで」
「ピアノ教室の子供たちは違うん、」
「教室の方はねぇ、親に通わされてる子が多いから。何年たってもバイエルから抜け出せない子なんて、ザラにおるし」
 耳が痛い。私もそのクチだった。四歳の時、世話になっていた家の大将が、習い事のひとつくらいさせとかないと、といって通わされていたピアノ教室。結局、その家にいた十歳までの六年間で、初級用教則本であるバイエルを卒業できなかったからだ。
「やっぱそんなもんか。ピアノって、とりあえず習わせとけ、って感じの親は多いよな」
「あ。その感じ。蛇の目さんもやってたんやろ。しかもバイエル卒業しなかった系」
「当たり、当たり。悪いことしたなー、って思ってるで。せっかく仕事の合間に習わせて貰ってたのに」
「仕事。こどもの頃の話と違ゃうん、」
「こどもの頃の話やで。小学校上がるちょっと前から、中学入る手前までの時期」
「その頃、仕事しとったんですか」
「千歳くんは知らんのかもな。その時期、ちょうどバブルが崩壊した時なんよ。昔は今と違って条件が合えば子供でも仕事することは出来たから、結構みんなやってたんやで。ウチは実家やなくて、市内の印刷工場に奉公に行っとったんよ」
「それ、戦時中の話ですか」
「ウチの話やって言ってるやろ。まぁ、奉公ってのは大袈裟やけど。実際は、虐待で親元に居れんくなって余所で暮らしとったってだけの話。ただの、里子や」
「……あぁ」
 一瞬、ぽかんとした顔をしていたトラオが、急に腑の落ちた表情になって頷いた。こういう物わかりのいいところが、彼の長所だと思う。私と彼が出会った場所が児童養護施設だったというのも、理解促進の一助になっているのだろうけれど。
「印刷工場で子供が出来る仕事って、どんなんやってたん」
二十四、五年前の生活を思い出す。
大量に印刷された紙。ガタンガタン、と繰り返される機械音。家中、どこにいてもその音は響いていた。正直、煩くて寝付けなかった。子供は早く寝なさい。なんて、言われる家ではない。工場は夜十時までは稼働していたし、手伝いがなくてもその時間までは誰も自宅である二階へ上がって来ない。忙しい日には、日付を跨いでも機械を動かしていた。騒音で近所から苦情が来てからは、深夜まで作業が及ぶ日には機械を止めて、手作業で出来る仕事を進めた。
従業員はたったの三名。自宅の一階部分が職場である印刷場。工場長にあたるお爺さんと、その奥さんが事務をやっているような、町の小さな印刷屋さんだった。お爺さんはみんなに「大将」と呼ばれていたから、私も心の中で密かにそう呼んでいた。実際、口に出して本人に言ったことは無いけれど。正直、お父さん、と呼ぶには抵抗があったし、ただのお手伝いに近いとはいえ、仕事をしていく上ではやっぱり私の中で彼の存在は「大将」と呼んだ方がしっくり来た。
私の仕事と言えば、もっぱらインデックス挟みだった。何百枚、何千枚とある紙の束を、決まった枚数毎に区切るためのインデックス用紙。誰にでも出来る、それこそ子供でも出来るような簡単で、単調な作業。毎日、厭というほど数を数えた。お陰で、計算だけは得意になったかもしれない。それ以外にしたことと言えば、新聞屋へチラシの束を持って行くこと。近所の新聞屋に行くのは楽しみだった。そこには大抵、同じ年頃の子供が仕事に来ていて、親近感を覚えたから。一番遠くの、学区内ぎりぎりの位置にある新聞屋にはクラスメイトの男の子が居た。教室では一言も話したことのない彼と、チラシの配達に行った際には働く社会人らしく、挨拶を交わしたものだ。それがちょっと誇らしくもあり、秘密を共有したときにも似た満足感が得られた。彼とは、話したことは無い。周りの大人の目もあるし、仕事中に会話は出来なかった。かといって、学校でもお互いにその事に触れたことは無い。あれは、よく似た違う人物だったのかも。と疑いたくなるほど、その子からは何の反応も無かった。
そんな、幼き日の記憶を久しぶりに辿った。それを、掻い摘んで説明する。トラオは面白そうにふんふん、と聞いていた。珍しかったのだろう。彼の年頃では、周りに働く子供なんて存在しなかっただろうから。いや、きっと、彼の年頃だけではない。実際、私の同年代やそれより十近く上の人間ですら、この話の共感を得られたことは無い。私の居た地域が、特別だったのかもしれない。
「で、その新聞屋の男子が初恋の人、っていうオチ、」
「残念ながらそういう美しい思い出やないねん。期待裏切って悪かったな」
「なんや、オチ無いんかい。話長いから、なんかええオチつけてくれると思って期待しとったのに」
「ほんま残念やで。ただのクラスメイトで終わった上に、結局一言も喋らへんかったしな」
 トラオは笑った。ちょっとむくれて見せてから、自然に、面白そうに笑った。
「……あんた、変わった子ォやな」
「何が」
「この話聞いて、普通の話題とおんなじ反応してくれた人なんか、初めてや」
 今までは、大概が気の毒がられるか憐れまれるか、はたまた話題を逸らして誤魔化されるか、大袈裟に茶化されるかの、どれかだった。だから普段、こういう話は闇雲に誰にでもしないようにしている。知られたくない、というわけでは無く、場の空気を変えてしまう気がして、厭だから。けど今日は、自然に話せた。話の流れで自然と昔話へとシフトして。そうして、普通の幼き日の淡い思い出として、幕を閉じれた。
 感慨深くこの一連の流れをかみしめていると、トラオは不思議そうに言った。
「だって、蛇の目さんが平気そうやから。別に、辛いとか思ってへんのやろ、」
 あぁ。なるほど。
 トラオは、ひとの表情が読める子なのだ。話の内容ではなくて、その人が思っている、感じていることは何かをちゃんと読んで、それに歩調を合わせられるひとなんだ。
 これは、案外難しい。誰にでも出来ることではない。
自分が理解できないこと、体験したことが無いことを受け入れられないのは誰だって同じだ。だから人は目を瞑る。物事から目を逸らして、見ないようにする。自分には関係のないことだ、と割り切って関わらない。無理して関わらなくても、人生は上手く回ってくれるし、その方がラクだから。けど彼は目を逸らさなかった。現代日本の代表的な核家族家庭。両親と兄弟というシンプルな環境で育ったはずの彼が、ごく当たり前に、彼にとっての非日常を日常の風景として捉えた立場で会話を繋いだ。それを自然に出来るのは、相手に寄り添って物事を捉えているからかもしれない。
だからトラオは、ミンドゥルレでピアノを弾き続けられているのだろう。
 ねぇ。家族って、どんな感じ。
 毎日両親が同じ屋根の下に住んでるのって、どんな気持ちなん。会話は、どれくらいするもの。何を話す。朝会えば、おはようって言ったりするの。夜ご飯は家族みんなで食卓を囲んで、子供たちは今日学校であった出来事を話して、父親はテレビのチャンネルの優先権を握っていて、母親は台所に立って。運動会にはビデオを抱えた父親が最前列を陣取り、お昼になったら母親とビニールシートの上に広げたちょっと豪華な弁当を食べる。誕生日にはケーキが並び、クリスマスにはプレゼントを交換し、母の日には花とメッセージカードを贈り。ありがとう、って微笑む。
 テレビのホームドラマでよく見た光景が、本物だとは限らないから。そういった家庭が本当に今の日本では一般的な姿なのかどうか、ずっと気になっていた。印刷工場にいた、幼き日からずっと。
 今なら、聞けるかもしれない。こんな下らなくて、滑稽な質疑を。
「で。千歳くんはここに何しに来てるの」
 聞けなかった。
 代わりに、つっけんどんな物言いで、挑戦的な内容に触れてしまう。
「なにって」
 ゴボウチップスに手を伸ばしていたトラオが顔を上げる。何の感情も灯っていないような無表情な顔。前に、家に来た時はこの顔のままあっけらかんと言っていた。エッチしに来たに決まってるやろ、と。そう言って、屈託のない笑顔で笑った。
「お喋りしに来たんよ」
 トラオは無感情な顔のまま、チップスを口に入れた。缶チューハイに手を伸ばす。あ、もう無いや。蛇の目さん、資源ごみ入れ何処、と聞かれたので咄嗟に台所の下と答える。
 拍子抜けだ。いや、期待していたわけでは無い。別に、セックスなんてやってもやらなくても、どちらでも構わない。ただ、この時間が楽しく過ぎれば問題は無いのだ。会話が楽しければ、それはそれでいいじゃないか。
「なに純情ぶってんの」
 嘘だった。
 そんな真っ当な答え、望んでいない。口を吐いて出た言葉が、私の本当の気持ちをよく表している。
「何、それ」
 トラオは眉を顰めた。細い目が、一瞬吊り上がったように感じる。
 反発心が、沸々と湧きあがった。この男は、私に何を求めているのか。道楽、暇潰し、それとも友情。最初から、そうだったのならいいよ。でもキミは、異端児だったじゃないか。不誠実さが売りだったんだから、その不誠実を誠実に遂行しろよ。斜めから入って来たんだから、最後まで責任取ってその態度を貫けよ。
「期待してたの、僕に襲われること」
「前に言うたよな。セックスしたかったから、素性の知れない男なんかを家に入れたんやって」
 自分だけ何もなかったような顔をしてマトモな人間のフリをしようたって、絶対に赦さない。だって私は、はっきりと覚えている。急に考えが変わったから、最初から僕たちトモダチでしたよね、なんて態度で来られて、それが通じるとでも思っているのだろうか。相手にもそう演技して欲しいのなら、それ相応の態度と謝罪が必要だろ。
「……僕は、」
 言葉にしなくても、だいたい考えてることは伝わったらしい。トラオはちょっと困ったような顔をして、科白を選んだ。
「今日の態度、見てて分かったと思うんですけど。いま僕は、蛇の目さんに性的欲求は持って無いんです」
 何を言い出すのかと思えば。先日、酔いに任せて裸になり、私の胸を揉んでた人物と同じ人間の口から出たとは思えない科白が飛び出した。一体、何があったというのだろう。あれから、ひと月とちょっと。こんな短期間の間で、人はこんなにも別人の心情に変われるものだろうか。
「あの時は、どうかしてたんですよ。最初から、ヤル気なんて無かった」
「ウソつけ」
「じゃあ何処が嘘だと思うのか、言ってみてくださいよッ」
「……もういい」
ゴム準備して来たくせに。
もう、何を言っても滑稽にしか映らない。今更、なにを必死になってキレイ事並べ立ててんだ。そんなに自分を正当化したいのだろうか。そんなに、綺麗で正しい人間でいることが大事なのだろうか。
「蛇の目さんとの関係を、大切にしたいって思ってんですよ。それがそんなに悪いことですか」
 悪くはない。言ってることは如何にも正しい。嘘臭いまでに、正しい。
けど、私には価値のない話だ。セックスも出来ないこの男と、どんな関係を結べばいいというのだろう。同僚でもない。飲み友なんか他にも沢山いる。何処かに出かける仲というなら友人になれるだろうが、この男と行動を共にしたいとまでは思わない。恋愛感情なんて湧くわけがないし、煩わしい関係は一番嫌いだ。
「千歳くんは、ウチにどうして欲しいわけ」
「あのさ、」
 トラオは声を荒げた。話題の腰を、ブツッと切る。
「さっきから気になってたんやけど。本名で呼ぶん止めてって、前に言いましたよね」
 急に何を言い出すかと思えば。意外なところから火の手が上がった。
「千歳くん」
「そう、それ」
 変なとこに拘るんだな、と思った。私には、プライベートな自分を見せたくないという意味なのだろうか。けどすぐに、思い直す。私と同じ立ち位置になりたかっただけなのかもしれない、と。だって私は、未だに彼に本名を明かしていない。
 別に、隠している訳では無かった。家に入れている時点で、いつ知られてもおかしくはない状況にあるのだから。もしかしたら、もう既に知っているのかも知れない。けど、彼が本当の名前で私を呼ぶことは無いだろうという確信があった。知ったところで、私から教えたという事実が無ければ、その名を呼ぶことに意味は無い。
「……ごめん」
非は認めた。私はたぶん、土足で彼の心に上がり込もうとしていた。ランパブで言われたことは、覚えていた。トラオで呼んでくれ、と言われていたこと。けど私は、家に彼が来た時は千歳くん、と呼ぶようにしていた。敢えてだ。外での呼び名と、家での呼び名を、使い分けているつもりだった。でもそれは、余計な気遣いだったらしい。外でも家でも、私と会っている時のトラオはトラオでしかない。所詮、心の内側なんて、覗ける間柄じゃないんだから。
「さっき、僕に聞いたことですけど」
 重たい空気を打ち砕くように、トラオが口を開いた。もう、怒っているような素振りはない。
「……ウチに、どうして欲しいか、っていうやつ」
 トラオが頷く。嫌な予感がした。私が、一番望んでいない答えが来るような、そんな予感。
「僕は、蛇の目さんと友達になりたいんですよ」
意気地なし。何びびってんだ。
そんな言葉が浮かんだ。
友達。昨日今日出逢った人物に使っても、差しさわりの無い言葉。一度も喋ったことのないクラスメイトや近所に住んでいただけの然して親しくもない人にさえ、使える言葉。便利な言葉だと思っているのかもしれない。これを言っておけば、差しさわりの無い関係性が保てると。そんなこと、本気で思っているのだろうか。
男女間の友情なんて存在しない、とは思っていない。そんなことを言ってしまえば、男社会で生きて来た私のこれまでの人生を否定することになってしまう。けど。トモダチなんて都合のいい関係は、そう簡単に手に入らないものなんだよ。少なくとも、私にとっては。
 ただ、サカリの時期が過ぎただけなんでしょ。そう、素直に認めちゃえばいいのに。私はそれを、責めはしない。そんなことより、今更誠実さを笠に着て友達だなんて言い出す方が、癇に障った。
「蛇の目さんも、恋愛、したらええねん」
 そしたらそんな考え、しなくなるはずやから。と小さく継ぎ足す。
そんな考え、というのはつまり、一夜を共にする相手はよく知らない男の方が後腐れがなくていい、という考えのことだろう。
「出来ひんから、こうやってもがいてんやろ」
「今は出来んくても、いつか好きなひとが出来たらきっと、」
「ウチ、人を愛せないんよ」
 ありきたりで、使い古されたフレーズを口にしたトラオの言葉を両断するように、私は声を大にした。
「愛着障がいって、知ってる」
 案の定、トラオは首を横に振った。後天的精神障害のひとつで、他者との愛着関係を上手く築けない障がい。はっきりとした診断書を貰ったことがあるわけでは無いが、私はたぶん、これだという自覚があった。
ひとは、絶対的な信頼のおける居場所を家族と定義し、この人だけは何があっても自分を最後までは裏切らない、という確信を持てる相手を保護者や母親と認識して、信頼という感情回路を形成するものだ。家族も、恋人も、夫婦も、友情より心の内側に一歩踏みいった関係性を築く相手とは、そうした回路、つまり、愛着関係を結ぶことになる。
けど、私には家族という概念が、どうしても理解できない。四歳から十歳まで居た印刷工場は、あくまでも仮の家だった。思い出深い、好きな場所ではあったけれど、私にとっては仕事場という認識で、家庭という枠組みではない。幼き日に過ごした家は追われて出てきている訳だから、当然じぶんの居場所とは捉えられない。十歳以降に戻った実家は、世間体を気にして上辺だけの体裁を取り繕ったハリボテの家族だった。びくびくと、相手の出方を窺いながら互いに過ごす日々。こんな窮屈な思いをするくらいなら十五を待たずに家を出たいと申し出たが、これ以上体裁を崩したくない。最後の親孝行だと思って十五歳までは耐えてくれ。と言われて、しぶしぶ折れただけだ。他人行儀で、苦痛でしかなかった思春期の頃。
トラオは、もう何も言わなかった。
相手の理解しえない範疇の理論詰めで私が黙らせたんだということは、ちゃんと判っているつもりだ。




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