日増しに強くなっていた痛みはとどまることを知らず、遂に休業を余儀なくされた。原因も判らず出勤できない旨を電話口で伝えると、上司は怪訝な口調で嫌味を垂れたが、そんなことに構っていられるほど精神的余裕は残っていない。連絡出来たことにひとまず安堵して電話を切る。次は、痛みの原因を探るための総合病院巡りだ。
通勤に使っている単車を使えば効率的に病院を梯子出来るのかもしれないが、今の私にはもう運転できるほどの体力も判断力も残っていなかった。貯金ならある。タクシーを駆使して、何とか病院まで運んで貰えればそれでいい。喩えこの病気を治すために全財産を使い切ってしまったとしても、それは仕方のないことだ。命あってのお金。健康でなければ、使い道は無い。
そう思うほどに、体力的にも精神的にも限界が来ていた。
奥歯が痛い、と感じていた感覚は、もう無くなっていた。今は、何処が痛いのかさえ分からないほど、顔が、頭全体が、ガンガンと揺れている。たぶん、元々の原因は奥歯辺りにあるのだろうから、口を動かすことは出来なくなっていた。口を動かせない、というのは不便だ。食事をすることはもちろん、喋ることすらままならない。意識していなくても、終始口からは小さく長い奇声が漏れ、それに気付いても止めることが出来ない。最高潮に痛みが達している時には呼吸をすることさえも苦労する状態が続いた。長く息が止まると苦しくなり、咳き込むような形で呼吸を繋げる。その激しい動作に刺激され、更に痛みが増加する。眠ってしまえば楽になれると考えても、睡魔は案外痛みには勝てないらしい。激痛は、眠りに落ちることすら許してくれない。一日に四錠だけですよ、と渡されたロキソニンを、時間を見ながら隙間なく飲み続けた。薬を飲んでから約三十分後から二時間の間、ほんの少しだけ痛みが和らぐ僅かな時間を使って、食事や電話、買い出しに睡眠のすべてを実行した。薬が切れると、無理をした代償かの如く大きな波が襲ってくる。そんな悪循環と闘いながら、長い長い二十四時間を過ごす。
何軒か病院を回っているうちに、この痛みはどうしようもなく存在しているけれど、命に係わるような病気ではなさそうだな。というのが感覚的に判って来た。判ったところでどうにもならないのだが、多少の心配事は軽減される。命に別状がないのであれば、原因が判明するまで耐えることは可能だ。だって私は、痛みに耐えることは、得意なのだから。
幼き日。この身体に受けた、数々の仕打ちを思い出す。
アイロンを腕に押し付けられたこと。革のベルトで殴られたこと。ペンチで、自分の爪を剥げと脅されたこと。それらは、文字通り生命の危機を感じていた。きょう布団に入って眠りに落ちてしまったら、明日はもう来ないかもしれない。眠る前、毎日考えていたことだ。毎日が、死と隣り合わせだった。それに比べれば、ただの痛み、いや、激痛なんか、怖くはない。
そうは言っても、睡眠不足と栄養失調で、まともな判断力は無くなってきていた。夜が明けるのが、異常に長く感じる。この痛みを紛らわせる手段は何か、と考える。最初は、ノート一面に書き殴りをした。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。
正常な状態の人が見たら、ぞっとするような文字の羅列を、延々と書き続けた。当然、気が紛れるはずもない。
次に、別の場所を痛めつければそちらに痛みが集中して、歯の奥から来る頭痛が紛れるのではないか、と考えた。生半可な痛みじゃこの激痛は沈下されないだろうからと、押入れの奥にあった鉄のハンマーを引っ張り出す。歩けなくなると厄介だから、足ではなく腕。それも、利き手ではない左手にしよう、と考える。案外冷静に考えられる余地がまだ残っていた、なんて思う。骨折する勢いで殴れば、多少はマシになるかもしれない。右手でハンマーを握りしめ、思いっきり振り下ろす。けど、体力の低下した腕力では、骨折するほどの威力は与えられなかった。青痣が出来ただけに終わる。しかも、顔と頭の激痛で、左腕の痛みはほぼ感じない。
電話が鳴った。ピリリリリ、という電子音が脳に響く。確認する気にもなれないので放置してると、止まってくれた。ほっと胸をなでおろしたら、また鳴る。煩い。煩い煩いうるさい。
部屋の隅に置いてあった携帯電話まで大股で歩いて行き、掴み上げると一気に戸棚に向かって投げつけた。ガシャン、と派手な音がして、扉のガラスが割れる。着信音は止まった。
照明の点いていない、散らかった部屋の中。割れたガラスの破片に埋もれる携帯電話。その電子機器からは、着信ありを示すLEDライトが、パルスのように規則正しくチカチカと光る。
この光景は、まるで現実じゃないみたいだ。と、痛みによって浮遊した脳細胞は捉える。
「あれ。蛇の目さん、聞こえてる。おーい」
遠くで、誰かが呼んでいた。蛇の目って何だよ、と思う。声は、崩れたガラスの隙間から響いていた。携帯電話が、通話中の光を発している。あぁ、あれはトラオの声だ。また、毎週恒例の打ち合わせという名の飲み会の誘いだろう。けど今は、それどころじゃないんだよ。二十四時間を乗り切るのもままならないのに、お前の相手なんか出来る訳ないだろ。週に一回も連絡があるなんて、苦痛でしかない。
「あ─────────────────────」
奇声を上げながら家の中を歩き回った。覚束ない足取りで。壁に何度もぶち当たりながら歩く。モルタルの壁を殴る。異常な精神状態ながらも、一応賃貸アパートを破壊しないよう配慮をして、壊れやすい木材の部分を避ける。拳の皮が擦り切れて、血が滲むまで殴る。お隣さん、ごめんなさい。心の中で、小さく呟いた。この病が治ったら、償いはいくらでもします、と。異常な精神状態ではあるものの、まだちょっとは常識的な思慮が残っていることに安心する。
こんな時、大切な人が居なくてよかった。
だって、こんな姿を家族や恋人が見たら、きっと凄く心配するだろう。同居していれば、その人は会社を休んでついててくれる、と言い出すかもしれない。休んだって、何も出来ないし、変わらないのに。そんな気苦労と、実質的な迷惑を掛ける相手が居なくて、本当に良かったと、心から思った。これは、昔体験した阪神大震災のときも思ったことだ。多くの死者を出した悲惨な災害時に、こんなことを思うのは不謹慎かもしれないけれど。もし、目の前の桟が倒れて来て自分が死んでも、誰も悲しむ人が居ないというのは、幸福なことだと、思ったんだ。
あの頃から、私の思考回路は変わっていない。二十年経った今でも、本質的なところは同じなのだ。
翌日、紹介されて訪れた大学病院のペインクリニックというところで受けたいくつかの治療が当たったのか、激痛は嘘のように沈下した。ここで行うことはいわゆる治療じゃないからね。と、ボサボサの長髪といった出で立ちの、胡散臭い若い男の医者が言った。原因は不明だけれど、痛みという症状を消すためだけに行う治療だから。根源は、痛みが治まってから、じっくり治していきましょう。といって、からからと笑った。家に帰ってカレンダーを見ると、会社を休み始めてからちょうど十日が経っていた。
「顎関節症ですね」
翌日、また紹介で移った病棟で、やっとまともな診断を受けた。
「重いものを持ったりする職業の人に起こりやすい病気なんですよ。あと、若い女性に多いですね。別名、美人病、なんて呼ばれてます」
なんと皮肉な名称なんだろう、とイラッと来る。
「はっきりとした原因というのは特定出来ないものですけど。ストレスからなる人も多いんですよ。最近、変わった出来事が起こったりしませんでしたか」
この医者は、何を言っているのだろう。
原因を突き止められないからと言って、二言目にはストレスと言っておけば万事解決、とでも思っているのだろうか。ストレスなんて、現代社会に生きるすべての人間が、平等に背負う持病じゃないか。
「特になにも思い当りません」
次回診察の予約カードと、薬を貰って大学病院を後にする。
明日からは、やっと出社出来る。まともな食事を摂って、溜まっていた洗濯をして、部屋の掃除をして。正常な思考回路が戻って来る。ここ数日、ずっと張りつめていた緊張感が、一気に抜ける。
家に着き、玄関のドアを開けると、異常な光景が目に飛び込んできた。散乱した部屋。割れたガラス。血の滲んだ壁。同じ文字の羅列を殴り書きしたノートの切れ端。
ぜんぶ、自分がやったことだ。
けど、急速にもやもやとした感情が押し寄せてくる。何て表現すればいいの判らない。もやもやと、心に渦巻く濁った水のような感情。
大切な人が居なくてよかったと思ったのは、本当だ。誰にも心配を掛けることがないというのは幸福なことで、自分が死んでも悲しむ人が居ないという事実は仕合わせ。その考えは、変わらない。変わらないけど。
この感情に名前を付けるとしたら、心細い、と言うのだろう。
携帯電話を取り出すと、私は迷わず彼の名前を探していた。休業していたこの十日間で、着信があったのは初日の上司からの電話と、トラオの名前だけ。
「蛇の目さんっ」
過度な期待はしないと言い聞かせながらそれでも打った一言だけのメールで、トラオは家まで来てくれた。
「なに、何があったの」
強盗に押し入られたような惨状の部屋を見て、絶句する。
私はこの十日間の状態を掻い摘んで説明した。
「そんなん、もっと早く言うてくれたらよかったのに」
「あの時来られても、何も出来ひんもん。邪魔なだけやし」
「相変わらず口が汚いね、キミは」
差し入れで持って来てくれたたこ焼きをふたりでつまみながらのんびりと喋る。平和だ。
「けど、トラオくんが居てくれてよかった。あんたは、ちょうどいい立ち位置の人やから」
「ちょうどいい立ち位置って、」
「心配されたり悲しまれたりしないような、近すぎない知人、って意味」
「……何それ」
彼の、たこ焼きに伸ばしていた手が止まる。冷やっとした空気が漂う。トラオはそのまま、爪楊枝を置いた。
「あのさぁ。おれかてこんなこと聞いたら心配するよ。心配せえへんわけ無いやろ。蛇の目さんは、全然知らんひとやないんやからッ」
トラオは声を荒げた。広代さんかて、こんな話聞いたら絶対心配するし。言いながら、彼は頭を掻き毟った。いつもワックスでキレイにまとめていた髪型が乱れるのを初めて見た、と下らないことを思う。
そんな綺麗事を聞きたいわけやないよ。私は、トラオとは当たり障りのない知人で居ることに価値があると思ってんだから。いつフェードアウトしてもおかしくない、明日、連絡が付かなくなっても、あぁそういうことか。と思えるような、軽くて楽しい関係を望んでいるの。
そういうことを伝えたかったけれど、言葉に乗せるのは難しい。
「おれ、言ったよな。蛇の目さんとの関係を、大切にしたいって。あれも、嘘やと思ってんか」
「嘘やなんて思ってへんよ。けどウチは、そういう不確かで重い感情は要らへんって言ってんの。……性欲で繋がれるくらいが、丁度よかったんよ」
心配するとかされるとか、そういう重い感情なんて、もう他の人でおなか一杯なんでしょ。性欲も、湧かなくなるくらいに。
もう、疲れた。とトラオが呟いた。何が、と聞き返すと、睨むような眼光をこちらに向けて彼は言った。
「もう僕は、これ以上あなたに振り回されたくないって言ったんです」
振り回してなんか、無いやん。と小さく言ってみたが、その言葉は簡単に打ち消された。今日だって僕はあなたのメールを貰ってから慌ててここに来て、せやのに親しくない知人やて言われて、充分振り回されてるやんけ。と。
「……蛇の目さんは、誰も信じられないんでしょ。おれに限らず」
急に静かな口調になって、ぽつりとトラオが零した。溜め息を吐く。そして、思い出したかのように、仕方ないか、それは。と小さく漏らす。
「性欲はそれだけで人と繋がれる手段やって、蛇の目さんは言ってたけど。セックスやって、感情が入ってないと気持ちよくないんやで」
ソファーに座ったまま、ミネラルウオーターのボトルを握りしめて。トラオは下を向いたままぽつぽつと、言葉を紡いだ。
詩人らしい、ロマンチストの言い分だな。といつもなら茶化してやりたい所だが、今はそういう空気ではない。トラオは、懸命に言葉を探していた。どう言えば、思っていることが目の前の相手に伝わるのか。どう切り出せば、自分の考えを受け入れて貰えるのか。
きっと、ピアノ教室やミンドゥルレの子供たちに教える際にも、こうやって頭を悩ませてきたんだろう。いま喋った彼の口調は、ちょっと優しかった。小さな子供に言い聞かせるときに使うような、ワントーン明るくて、柔らかい声音。
そんなこと、言われなくても判ってるよ。
心の中で、私は静かに呟いた。でもそれを私が認めてしまったら、誰かと繋がれる手段がひとつ減ってしまうでしょ。だって私は、人を愛することなんて出来ないんだから。
身体を重ねることで得られる満足感というのは、何だろう。と、思いを巡らせてみる。その時だけは、相手が自分のことを一番強く考えてくれているような気がするから。一時的にでも、大切に思われているような仮想体験が出来るから。
ずっと、誰かに認められたくて。誰かに大切に思われてみたかっただけなのかも知れない。
押し黙ったままの私を見て、彼は言い過ぎたと感じたようだった。所在無さげに立ち上がったトラオは、帰ります。と言って床に広げた荷物を拾った。散らばったガラスを見て、何か言いたそうにしていたが、そのまま玄関まで歩いていく。
「今日は来てくれてありがと」
差し入れも。と言って、玄関先まで見送りに立った。
トラオは黙ったまま靴紐を結び、黙ったまま振り返って私を見つめた。何か言おうとしていた口は一度強く結ばれて。ようやく開く。
「あなたも、いつか愛あるセックスを体験したら、僕の言ってる意味が解ると思います」
ガチャン、と大きな音を立ててドアが閉まった。遠くで、バイクのエンジン音が響き出し、遠退いて行く。私は床に散らばったガラスの残骸を拾い集めて、ゴミ袋に入れた。
END
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