* わたしに欲情してください


2.


 
「なぁ、何でそんな離れてるん。こっち来て座りぃや」
 ソファーに胡坐をかいてカップ麺を啜ってたトラオが、急に隣をばんばんと叩いて言った。
 無気力な表情で顔を上げる。彼は尚もソファーを叩きながら、ほら早く、と催促している。ラグの上にだらっと座り通販雑誌を捲っていた私は、さも面倒臭げに答えた。
「狭いからヤダ」
 あのね。あんた我が物顔でソファーに寝転んでるけど、ここ私の家なんですけど。と内心思う。ま、気を遣うような性格だったら既にこの部屋にいないんだろうけど。
「狭いからええんやろ。早よ来ぃさ、時間ないんやから」
「じゃあもう帰れば。明日も早いんやろ」
 以前、平日の出勤時間は早朝四時半だと言っていた。何の仕事をしてるかは知らないけれど。
「せや、だから一時には帰るし」
「遅っ。てか、まだ二時間も居る気なん、」
「二時間しかないんやろ。おれ、前戯には時間掛けるタイプやねんから」
「前戯って……。あんた何しに家来たん」
「それ、わざわざ言わしますか。エッチしに来たに決まってるやろ」
 そう言うと彼は得意げに財布からコンドームを取り出して見せた。今日は準備してきました、と言ってにっこり笑う。二十九の男の、屈託のない笑顔。しかも右手には避妊具。こいつは一体何を根拠にこんな自信を持って誘ってるんだろう。呆れを通り越して、感心さえ覚える。
まともに会話したのが昨日の話。会話して、何故かこの家に泊まっていって。その、昨日の今日でだ。当然、付き合ってもいない。
「だって昨日、あなた言ってましたやん。セックスしたかったんでしょ、僕と」
 何の疑いもない、清々しく晴れ渡ったニコニコ顔で言うセリフではないと思う。思うけど、この男相手にそんな常識的な世論を突き立てても仕方がない。性欲に理屈なんて無いし、恋だって突然落ちて盲目になるものなんだから。
だから言ってることはバカバカしいけど、この笑顔は年齢に似合わず案外、可愛く見えるのかもしれない。
「……確かに言いましたね、セックスはしたい。何年もご無沙汰やしね。ただ、トラオくんとしたいとは言うてへん」
「なんやそれ」
「だってあんたは、ウチの彼氏やないし」
 目の前の男が、きょとん、とする。そして、あぁ、と気付いたように声を上げた。
「ぶっ飛んでるひとかと思ったら。何や、ごっつマジメなこと言うんやなぁ」
「別にマジメやないよ。後でモヤモヤされたら厭(いや)やん」
「もやもや。僕が、」
「そう」
 世の中、男の性欲と恋愛感情は別物だという認識が横行しているが、現実は案外そうでもないと思うのだ。確かに風俗店の繁盛は事実として存在するけど、代金を支払うという明確な接客サービスである認識と、ふつうの出会いとを同じ次元で考えてはいけない。こういうロマンチスト主義の男は、案外割り切れないものだと思う。心と身体を切り離して考えたことが、きっと今までに無いはずだから。
「ほんなら、先に付き合っちゃおうか」
 今度は私がきょとんとなった。
莫迦じゃなかろうか。この子、本気で言ってんの。
トラオは、さっきの面喰った表情とさほど変わらない顔のままだった。涼しげな表情、とでも言おうか。いつでも逃げれそうだし、興味無さげにも見えるけど、緊張感をわざとはぐらかしてるようでもある。
私が、イエスと答えるはずがないと知ってるから言ったんだろうか。まさか本気でセックスしたいがために言ってるんだろうか。明日になれば、昨日のハナシは無しの方向で。とか言うつもりだろうか。そんな冗談みたいなこと、するだろうか。この年で。
そう、もうすぐ三十路なんですよ、キミも。こんなとこで私なんか相手にしてる場合じゃないでしょ。結婚願望があるなら、男もそろそろ本気で動かないといけない年齢なんだから。
けどもし、こっちのセリフが本心だったとしたらどうしよう。
ありえないけど。けど。もし。身体目的に見せかけて、本当は恋人になりたがっていたとしたら。ふつう、こういう逆パターンは常識じゃ考えられないけど。この変わり者ならあり得るかもしれない。だって今、確か「先に」と言った。ヤった後で、既成事実を作った後で、お付き合いの流れを切り出す予定だったのかもしれない。
そんな下らない堂々巡りを脳裏で一瞬の間に繰り広げてみた。けど、私はどうだろう。私はこの得体の知れない男と付き合う気は合ったのだろうか。ちょっとの間、考えて。すぐに答えに辿り着いた。でも。この流れで、後にも先にもあんたと付き合う気はない。とは流石の私でも言い辛い。
「面白んないわ、そんな見え透いた冗談」
 これでも反論の余地は残したつもりだ。本当に冗談だったのなら笑ってやり過ごせるだろうし、違うならそうじゃないと反論してくれればいい。そのどちらでもなく、ただ相手の反応を窺ってただけなら、これで私にはその気は無いと伝わる筈だ。
「ですよね」
 あっさりと、トラオは笑って言った。食い下がる気配も見せない。
 そりゃそうだ。私がこの子に情の欠片も湧かないのと同じで、この子だって私に執着心なんて持てるはずもない。まだ親しくもなっていない。今までただの知人止まりだったのが、たまたま昨日、きっかけが出来て喋っただけに過ぎないのだから。しかもそのきっかけというのが、職場の宴会終わりに立ち寄ったランパブでのショータイムなんだから、これこそ冗談みたいな話なのだ。
 昨日。岡山からの出張組が職場の支援に来てくれたことを受けての歓迎会が催された。
一次会は普通の居酒屋で上司も交えての食事会。無礼講とは言いつつも上司の手前、殆ど羽目を外すことはなく真面目に互いの職場の環境整備の話題なんかで食いつなぎ、飲み放題の時間が切れるまでを過ごした。お決まりのパターンだ。そしてここで管理職は退散。これまたお決まりのパターンで、次は誰かが先陣を切って二次会会場へと誘導する。そしてこの日、二次会会場に選ばれたのが十三(じゅうそう)のランジェリー・パブだった。うちの職場は私鉄の板金塗装と車内清掃の下請け会社。板金塗装課の職人さんたちは私以外男性ばかりなんだから、こんなことはザラにある。そして事務職ではなく職人仲間である私は、普段から基本的に女性扱いもされていない。だから、たまにはみんなと一緒に着いて行って、ホステスさんを付けずに飲むのだ。昔はこれが無粋な真似かもしれないと考えたりしたけど、何回か行っているうちにそうでもないことが判ってきた。
だいたい、宴会終わりに行くときは半数位の人数が二次会へ流れるため十人以上の大所帯になる。平日のキャバクラやスナックだと、店の女の子の数が足りなくなるためハナからお客全員にホステスが付かないのだ。そんな時、私みたいなのが居ると切り札になる。女の子連れて来たから、料金マケてや、と。男性陣は割安で入れて、女性客の私は酒代がタダになる。だから、男性陣の夜の楽しみの邪魔にならないものか、なんて余計な心配はせずに今は堂々と店に入って行けるのだ。
 月曜日の二十一時。岡山組を数名交えた中、連れ立ってぞろぞろと店内に入ると予想通りお店に出勤している女の子は五名足らずしか見当たらなかった。しかも内二名は既にカウンター席の三人組に取られている。
「あら、えっと…九名様かしら。ごめんなさいね、今日女の子これだけしかいなくて」
「ああ、いいっすよ。こっちで勝手にやってるんで。色気ねぇけど、姉ちゃんも一人連れて来てるし」
勇作さん、そんなこと言ってると水割り作ってあげませんよ」
「あ、嘘ウソ。うちの職場のマドンナ連れて来たから大丈夫っす」
 ひとつ上の先輩である勇作さんはこの店の常連で、ママとも親しい。こういう時、私はタダ酒を飲ましてもらう代わりに職場仲間みんなの水割りを作って配るのだ。ふつうの居酒屋だと一番若手の後輩が担うような役割だが、この時ばかりは酌女になってあげるのも悪くない。
「そぉ、じゃあお任せしちゃおうかしら。チャージ料、おひとり二千円にしておきますね」
 交渉成立。大人数の二次会なんて基本みんな飲み足りないだけなんだから、お店のサービスが無くても困らないものだ。
「あ、そうそう。女の子は少ないけれど、今日はとっておきのイベントがあるのよ。もうすぐ始まるから、皆さんも楽しんでいってくださいね」
 ママが言い残していったこのイベント。それが、本日のショータイムらしい。
 こういう店のショーといえば、お店の女の子たちがアイドル風の衣装に着替えて振り付け有りのカラオケをするのが定番だが、どうやら今日は違うみたいだ。セリナちゃんの誕生日なんです、と隣の卓に付いたホステスが教えてくれた。今日は、この店の看板ホステスのバースデーイベントが行われるらしい。
 ひとまず私は自分の仕事を片付けにかかる。卓に運ばれてきた氷と焼酎をグラスに分け、八分目まで水を注いで銀のマドラーをがしゃがしゃと回す。ボトルは一本しかないから、これを水増しして一時間半は持たせたいところだ。故に、味なんて殆どしない薄っい水割りを作って配る。そして最後に自分用の酒を用意する。アイスブロックを入れた後、半分まで焼酎を注いでちょっと濃いめで。ズルしてるみたいだが、これくらいの特権は行使しても罰は当たらないだろう。
 そうこうしているうちに、件のイベントが始まった。照明が切り替わり、ポロロロン、とピアノの様な音色が入る。店の奥。カウンターの端に設けられた小さなステージの上には、いつの間にかふたりの男がいた。黒のチノパンに白い綿シャツ、その上から黒のループタイをした若い男が持ち運び用のケースから取り出した鍵盤を設置し、その横で中肉中背、よりはちょっと小太りで間の抜けた羊のキャラクターがプリントされたTシャツを着た男が矩形の箱の上に腰を降ろす。
主役のホステスの知り合いか、店の常連客か、それともママが呼んだ地元ミュージシャンか。キーボード奏者が掛け声を上げた。ステージ上に座っている男が尻の下の箱型の打楽器──カホンを打ち鳴らす。さっきまで店内に流れていた一昔前の洋楽ヒットソングの有線は、いつの間にか消えていた。
 ピアノ音のキーボードを使っているが、クラッシック調でもなければジャズ風でもなくポップス寄りでもない。ギターとベースとドラムは居ないが、勢いのある激しい旋律にリードするカホンのリズム。どちらかと言うと、ロック調の音楽を彼らは奏でていた。一曲目が終わって拍手が鳴り、続け様に二曲目が始まる。次は、少しおとなしい曲調だ。穏やかなピアノの音色を聴いていると、どこかで聞いたことのあるようなデジャヴを感じた。何だっけ、と思い出そうとしたけれどすぐに止める。楽曲なんてのは世の中にゴマンとある。それらは大概似たり寄ったりのリズムとメロディラインで構成されているものなんだから、その膨大な既出の曲の中で聞き覚えのあるフレーズを思い出してたらきりが無い。
インストゥルメンタル・デュオかと思いきや、途中、キーボードの唄が入り出した。そこで、ある確信を得る。あぁ、この人たちは多分、地元のミュージシャンなんだな。ホステスのただの友人でもなければ、常連客がサプライズで余興をやっているわけでもない。素人のカラオケではないことは、ステージ慣れしている様子から判った。ステージ慣れしてるんだけど、売れない地元のミュージシャンであることは明確だった。お世辞にも唄がうまいとは言えない。ぎりぎり音程は外していないが、この旋律に乗せる声ではない気がする。曲はカッコいいと思うし歌詞もいいこと言ってるんだけど、声がその辺にいる普通の兄ちゃん過ぎて、もう一押し足りない。惜しい。
三曲目が終わったところで、カウンター奥からケーキが運ばれてきた。可愛らしくちょこんと、火の点いたろうそくが三つ乗っかっている。拍手が巻き起こる。カウンターに一番近いテーブルに座っていた、淡いピンクのふりふりのベビードールを着たホステスが立ち上がり、蔓延の笑みで四方に頭を下げた。キーボードが、お決まりのバースデーソングを弾く。ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー。それをお客みんなで合唱した。既視感。なんだかむずむずする。やっぱり、聞いたことがある。
彼女が火を吹き消したら照明が切り替わり、店内は元の照度に戻った。イベントも終了みたいだ。羊Tシャツのカホン奏者が立ち上がり、用意していた花束を彼女に渡す。
「あの人たち、プロの人なん」
 隣に座っていた後輩がお店の女の子に尋ねた。
「プロ、じゃないと思うけど。阪神間で活動してるらしいよ。名前がなんか長くて覚えてないんだけど。確かねぇ、ヒツジとかトラとか言う感じの」
「羊と虎、」
「えぇっとね……あ、あれあれ」
きょろきょろと辺りを見渡していた彼女が背後の壁を指す。振り返ると、お店の宣伝やミニシアターのポスターなんかが敷き詰められている中ほどに、ポストカードくらいの大きさの小さなフライヤーが二枚、並べて貼ってあった。夜の都会の交差点の真ん中で、カホンに跨る羊Tシャツの男と、鍵盤を肩に担いだ白シャツにループタイの男が並んでいる写真。そこに、未の歩みは寅に翼、と書かれている。諺か何かか。これが、彼らのユニット名なのだろうか。
演奏の終わった彼らは、ステージから一番近い卓に腰を降ろしていた。例の誕生日であるホステス・セリナ嬢が、ふたりのグラスにシャンパンを注いでいる。乾杯。彼女はカホン奏者の隣に座り、キーボードは角の席で僅かばかり並べてあったつまみに手を伸ばしている。白い肌に細い体躯。薄い瞳。よく見ると、左目だけ奥二重になっている。一見ふつうの黒髪短髪だが、右耳の上だけ刈り上げた髪型。むずむずしていた既視感が確信に変わる。
 私は
に席を立ち、彼らのテーブルに向かった。そして、キーボードの男の横に立つ。
「コヤタ先生」
 いま鞄から取り出したばかりのスマートフォンを弄る指が止まる。キーボード奏者は、緩やかに顔を上げた。隣に立つ私をぽかんとした表情で見上げる。
 これ以上の言葉を継げない私に、彼は小さく言った。
「人のことを指でさすのは止めなさい、お嬢ちゃん」
 ここはランパブ。ふつう客は男性ばかり。けど、下着姿にもなってなくて化粧も殆どしてない私をホステスに間違えることなんて、まず有り得ない。それにこの男、どう見ても年下だ。二十代半ばくらいか。下手したらもっと若いかもしれない。そんな子に、この年になってからお嬢ちゃん、なんて呼ばれる日が来るなんて夢にも思わなかった。多少若く見られることはあっても、もう三十一だ。どうサバを読んでもお嬢ちゃんと形容される年齢ではない。ここはふつう、お姉さん、とかだろ。いま私は、若い子に莫迦にされてるんだろうか。
「ねぇねぇ。コヤタって、トラオさんの苗字なん。それとも、本名はコヤタさんって言うんですかぁ、」
 セリナ嬢がせっつく。彼は飄々とした態度で、ヒミツ。とだけ言うとシャンパンを飲み干してウイスキーを注文した。隣に座るカホン奏者が、おれは
広代っていうんやけどね、名前はヒツジと関係ないで。と話題を繋ぐ。
「先生って呼んだってことは、トラオのピアノ教室の生徒さんなん」
 カホン奏者に話を振られ、答えに詰まった。ピアノ教室の講師をやってたなんてのは知らなかった。言っていいものかどうか。彼は、嬢の前では素性を隠しておきたいみたいだし。ちらりと目を遣ったが、当の本人は素知らぬ顔でスマホを弄っている。まるで、ワザと無視されてるみたいだ。怒っているのだろうか。だとしたら、見た目通り子供っぽい男だ。
「まぁ、そんなとこです」
 話を合わせておいた。私だって、やっと思い出したくらいだ。向こうが、なんの特徴もない私を覚えている筈もない。
 お邪魔しました、と言って私は会社の仲間たちが座るテーブルに戻った。同じ卓に座る先輩たちの空いたグラスに、氷と焼酎を足してかき混ぜる。
「ミンドゥルレの清掃ボランティアで来てた子でしょ」
 振り向くと彼が居た。両手をズボンのポケットに引っ掛けて、見下ろすように突っ立っている。
「最近、見かけませんけど」
「……辞めたからね。仕事の時間と合わなくなって」
 まさか、思い出すとは思わなかった。
兵庫県家庭養護促進協会、子供の家・
蒲公英。まるで学校の校舎のように大きくて、無機質な建物。百名規模の子供たちがここで生活している、いわゆる児童養護施設。私はそこに、春の一時だけボランティアスタッフとして通っていた。
 ふーん。彼は興味無さげな相槌を打つ。
「よく判りましたね。私、三週間足らずしか通ってなかったのに」
「そりゃ、まぁ、職員さん以外で若い人が出入りしてるん珍しかったから。あと、教室以外で先生なんて呼ばれてるの、あそこくらいですからね。……それから、」
 彼は無表情に、こう続けた。普段は僕、トラオで通してるから。次言ったら唇貰いますよ。と。
 それ、脅し文句のつもりだろうか。こういう軽いノリの冗談を言う男は、正直苦手だった。私は、コヤタ先生のことを知っていた訳では無い。数回、ミンドゥルレの校舎で子供たちに囲まれながらピアノを弾いているのを見かけただけ。直接会話を交わしたのは、これが初めてだった。
 そーか、辞めてもーたんや。面白んないわ。ぶつぶつと独り言を言ったかと思うと、彼は胸ポケットから何か取り出し、目前に差し出してきた。名刺が二枚。
一つ目には、阪神間を拠点に活動するピアノデュオ・
の歩みはに翼、キーボード・寅男。もう一つには、伊丹ピアノ教室講師、チーフマネージャー・千歳虎弥太。と、書かれている。
「何これ。ナンパ、」
「営業活動」
 じゃあねん、蛇の目チャン。と言って、彼は店の奥の手洗いへ消えた。
蛇の目というのは私のことだけど、勿論本名ではない。ミンドゥルレのボランティアスタッフと職員とが連絡用に使っているミクシィ内での、ニックネームにしていた名前だった。
「お嬢ちゃん、いつになったらお相手してくれんの。オジサンずっと待ってんですけど」
 少し高くてざらついた声音の男が、奥の間で間延びして言っている。
 さっき言った言葉の意味を理解しているのかいないのか、相変わらずトラオは我が物顔で人の布団に潜り込み、勝手に衣類を脱ぎ散らかしていた。
あの後、互いの年齢の話をした。こっちも、若く見えていたトラオがアラサー年代だったことに衝撃を受けたが、案外同年代だったことにいろいろ合点がいく部分もあり納得した。けど、私はあなたより年上でしかも三十越えてるんですよ。と話したにも拘らず、変わらずのお嬢ちゃん呼び。そしてまだギリ二十代のくせに三十代の私を差し置いて、自分のことをオジサンと表現する。一体こいつはナニ考えてるんだ。
 鍵盤を叩いている時の姿はわりかし恰好いいと形容出来る彼だが、半裸で布団に転がってる今のトラオはただの間抜けな三十路だな、と思う。
「あのね。さっきの話、聞いてた。あんたは彼氏やないからエッチはしない、って言うたよね」
 私は隣の居間から動きもせずに、雑誌を捲りながら言う。
「でも蛇の目さん、セックスしたいって言うてましたやん」
「正確に言おうか。トラオくん相手じゃ、気分が乗らない」
 無駄に迫って来る男の撃退法その一、を使ってみた。相手の自尊心をやんわりとへし折ること。そうすれば身体で抵抗しなくても、大概の男は勝手に諦めていくものだ。
 あ、そう。そーか。おれじゃ、濡れないってか。案の定、布団の上の男はぶつぶつ言い始める。
「僕、何でもしますよ。何かして欲しいこと無いん、」
これで引き下がるタイプではなかったらしい。草食男子と呼ばれるのに代表されるような、性欲に消極的なメンズが蔓延る今時分には珍しい逸材だ。ちょっと感心した。
「別に無い」
 感心したけど、それとこれとは別問題。私が貞操を差し出す理由にはならない。
 さっきは下手に出てきたが、次は作戦を変えたらしい。急に駄々をこねるような口調になった。
「なぁ。おれ、ただの変態みたいやん。他人ン家で勝手に裸になって、ひとりで寝とったらさぁ」
「よう判ってるやん、自分のこと」
 笑いそうになった。確かにこのままじゃ、その通りの構図だ。男は裸になっているのに、女は下着どころかシャツ一枚すら脱いでいない。
 この子は、何をそんなに必死になっているのだろう。無料でセックス出来るチャンスを逃さまいとしているのだろうか。はたまた、ゲーム感覚で自分の手の内に落ちてくれるまで粘っているのだろうか。それとも。
 ひとの本心なんて読めない。どれであっても、辿り着く結論はひとまず同じだ。
何だか、同情心が出て来た。
「じゃあねー、その気になるようなキスしてくれたら、相手してあげる」
「ほんまにっ。やる、やります」
 だらだらと寝っ転がってたくせに、急に飛び起きてこっちの部屋までやってきた。そして、にい、と無邪気に笑う。飼い犬が居たとしたら、こんな反応なのかもしれない。なんて、呑気に思った。
 トラオは目の前にちょこんと座って、迷いもなく私の両肩を掴んだ。気持ち、私が見上げるような構図になる。じっと彼のアシメトリーな両目を見続けていたら、目ぇ瞑ってくれへん、と気まずそうに言われた。キスなんかじゃ、何も変わらないし何も減らない。キスで気持ちが動くなんて、有り得ないんだから。
目を閉じて。力を抜く。ふっと、唇に感触が乗った。離れそうになるのを追いかけるように、今度は咥え込まれる。そのまま、ついばむ様に、もう一度。呼吸をしようとほんの僅かに口を開けると、そこから舌が侵入して来た。口の中をかき混ぜられる。探るように、奥に、奥に、吸い付かれる。それを止めるように自分の舌で彼の舌を触った。動きが少し、緩やかになる。
両肩に乗ったトラオの手には、殆ど力が添えられていなかった。本当にただそこに、置かれているだけ。体温が感じられない。情熱も、興奮も、性的欲求も、そこからは何も感じ取ることは出来ない。こんな力じゃ、いつでも逃げられる。否。敢えて、そうしているのかも知れない。
「ぜんぜんダメ。気持ち籠ってへんもん」
 唇が離れてすぐ、私は言い放った。当たり前だ。こんなこと、試すことではなかった。だって私たちはお互いに、恋愛感情なんて持っていない。
理不尽な注文に、理不尽な答え。男が怒ってもおかしくないと思ったけれど、トラオは怒ることはなかった。ただ笑って、そっか、アカンか。と布団に戻り、横になった。
「まぁ、嫌われてへんのやったらええわ。気長に待つし」
 嫌われてない、という確信は何処から来たんだろう。口づけを許したことだろうか。それとも、もっと遡って考えたら、部屋に入れた時点での判断なのかもしれない。
「おやすみ」
 ひらひらと、手を上げてトラオは言った。その手を横目に見ながら、床に広げられてる雑誌に目を落とす。
 さっきのは、どういうつもりだったのだろう。冷静で、味のしない、長いキス。
一見、セックスの前の前戯のような体を装ってはいたが、彼は微塵も呼吸を乱してはいなかった。正直、この人はもっと上手な口づけが出来るひとだと思う。手なんか触れていなくても、息遣いと唇だけで女性をとろけさすような、そんなキスが出来るタイプの人間だ。そんな男が交わした、事務的なキス。上辺だけの口づけ。
そう、さっきの口づけは、まるでこのふたりの関係を表していた。
 試されていたのかもしれない。私に、本当にする気があるのかどうか。軽いスキンシップから、自ら応えるだけの反応があるのかどうかの、探りを入れていたのかもしれない。もしくは。私が、恋という感情に騙されているのかいないのか。
 騙された振りをしていれば、気付かないふりをしていれば、彼はその先へ進んだのだろうか。その先へ進めば、何か変わっただろうか。二人の関係か、否、そんなことではなくて。この、醒めた感情しか持てない、私の思考回路が。
何だかんだ言って、無理強いはされていない。触れて来る手は、やさしいと表現してもいい。勃起は生理現象だから仕方ないにしても、ヤろうと言っている割には向こうから近付いて来たことは無いのだ。今だって、布団には一人で入ってるわけだし、キスしてくれたらと私が言ったからこちら側にやってきた。言わなければ、ずっと待ってるつもりだったのだろうか。私の布団の中で。ひとり、裸で。
 ごちゃごちゃ考えても仕方のないことだった。正直、勿体ないことをしている気さえする。理由が何であれ、未だかつてこんなに異性に求められたことはない。こんなチャンスはもうないかも知れないのに。こんな、恋愛感情に振り回されずにセックスできる相手なんて、早々見つかるものではない。
結婚願望もなく、恋愛ごとの面倒も厭で、でも長年発散できていなかった性欲だけを満たせるソースは無いかと探したこともあった。男性陣がよく行くセクキャバやピンサロやデリヘルみたいな、気軽に金で異性を買えたらラクなのに、と本気で思ったこともあった。そんな時、インターネット検索でレンタル彼氏というサービスが存在することを知った。待ち合わせして、デートして、必要であればオプションサービスを付けてホテルに入る。拘束時間代と食事ホテル代、オプション料金を計算すると初回利用料は約五万円前後。これを高いと取るかどうかは人によるけれど、少なくとも私は妥当な額だと感じた。後腐れなく遊べてセックス出来て、しかも相手はプロだからサービス精神を出してくれる。ルックスだって多少は好みを選べる。素人と違って安心感がある。これだけ条件が揃っていたら、変にそこらで出会いを求めなくても金を出して買った方が遥かに効率的だと感じたのだ。そこに愛情なんて、端から求めていないんだから。
 昨日。ランパブを出た後、未と寅のふたりに誘われて、三軒目へ梯子した。案内されたのはトラオ行きつけのバー。そこでいろんな話をし、趣味嗜好が近いことを知った。すきな音楽の系統、お酒の種類、仕事に対する姿勢、児童養護施設のボランティアに行った経緯。最近観たミニシアターのタイトルが同じだったことには、親近感を感じずにはいられなかった。ひとは、マイナー要素の強いもので共通点を見付けると、急速に仲良くなれたと錯覚するものだ。例に漏れず私も彼も、きっと興奮状態にあった。酔った素振りは見せなくても、アルコールは回っている。
 気付けばトラオに、送り狼をされていた。
 酩酊状態の女性をひとり帰すわけにはいかないと言って、強引に家まで着いてこられて。部屋に入って緊張感の抜けた私は嘔気を感じ、年甲斐もなくトイレへ駆け込んだ。何とか間に合った。そんなに飲んだつもりはなかったけれど、普段飲まない焼酎をつまみもなしに飲み続け、更に梯子酒でちゃんぽんをしたのが利いたのだろう。脳が回る。
 胃酸が落ち着いてからトイレを出て、キッチンで顔を洗い、歯を磨いた。誰かが、部屋にいることをすっかり忘れていたように思う。居間から、大丈夫、という声が掛かり視線を向けると殆ど知らない男が座っていた。誰だっけ、こいつ。と思うが、思考が回らない。頭が痛い。胸が苦しい。シャツは緩いシルエットのものを着てはいるが、通勤パンツのベルトとブラジャーの圧迫感が半端なく苦しい。
 口を濯いで蛇口の水を止めると、倒れ込むように床に転がった。
「布団、敷いてあげよっか、」
 少々心配そうな表情で、男が覗き込んでくる。私はその顔を見上げもせずに、今思っている欲求を口に出した。
「そんなことより、服脱がして。苦しい」
「え、」
 何も考えていなかった。何も考えられなかった。いい年して、年下の男を連れ込んだ挙句、こんな発言をすることが何を意味するものと受け取られるかなんて。
「ええのん、ホンマに、」
 男は戸惑いながらシャツの中に手を入れた。背中で、ホックを外す。締め付けられていた窮屈がなくなり、開放感で気持ちが緩んだ。緩んだところで、急に顎を持ち上げられ、口を塞がれた。
「ちょっと、」
 吃驚して目の前の相手を突き放す。男は、我に返ったような表情を一瞬見せたが、目の色は変わっていない。
「いま、何したん、」
「……ごめん」
そんな事ではない。私が言いたいのは、突然キスされたことを謝って欲しかったわけでは無い。恋人付き合いから遠のいてもうすぐ十年。その、十年ぶりの口づけがこんな状況だなんて。最低だ。だって今、私は嘔吐した後なのに。何で今なん。というか、こんな泥酔状態の女にキスするなんて、どれだけ飢えてんだ、この男は。
「ごめん。でも、もう止まれへん。ごめん」
 そう言って男は覆いかぶさってきた。私は何だか訳が分からないまま、この暴走した狼を収拾付けるには何て言ったら効果があるだろう、と頭の片隅で考えつつ、その反対側では全く別のことを思っていた。
よく知らない相手、仕事や私生活で関わりを持つ人間は一人もいない。ミュージシャンならそれなりに遊び慣れてるんじゃないか。だとしたら、床上手かもしれない。
どうせ、明日になったら忘れくれと言い出すんだろう。私だって、誰かとお付き合いをするのは御免だし、ましてやこんな得体のしれない相手なら尚更だ。火遊びするには、好都合なんじゃないか。それに、最初に手を出してきたのは向こう。この子相手なら、罪悪感を感じなくて済む。
「身体、キレイですね」
 ベルトを外してズボンを脱がせ、シャツのボタンを半分外したところで男が言った。露わになった胸にそっと触り、そのまま顔を埋める。
「お世辞上手いんやなァ。そんなん言われたん、初めてやわ」
「お世辞とちゃいますよ」
 舌を這わせながら男が喋る。少し息が上がっている。右胸の乳首を口に含んだ。舌で、ちろちろと転がす。片手は背中に回して、もう片方はラグに手をついて。
 こういう時、声を上げるか吐息を漏らせばいいんだろうな、と思ったけれど自然に出ないのだから仕方がない。付き合ってもいないこの子に対して気を回して演技をする必要はないし、きっと彼もそこまで望んでいない。
 蛇の目さん、と彼が私を呼ぶ。何度も何度も呼ぶ。床に着いていた手はいつの間にか胸を揉んでいる。もう片方の、背中に回していた手は首筋を撫で、軽く髪の毛に触れた。顔を上げ、目を細める。男は私の顔を見ながら、下着越しに硬くなった股間を押し付けて来た。そのまま、緩く腰を揺らす。
 上がった息の隙間を縫うように、苦しそうな声で彼は言った。
「……抵抗、してくれへんと。困ります」
 腰の動きを止める。私は組み敷かれた状態のまま男を見上げた。
「うちは別にかまへんけど。エッチする機会なんて、早々無いし。それに千歳くん、うまそうやし」
「僕は困ります。……こんなことしといてゴメンやけど。だってこんなん、初めてやし、どうすればええんか、判らへん」
 本当かよ、と思う反面、行動の端々の違和感とぎこちなさが、その言葉の真実味を物語っているようにも感じた。
彼は、絶対に私の下半身を触らなかった。ズボンを脱がした後は、下着を降ろすことは疎か、手で触れようともしないのだ。最初は、おっぱい好きの人は上半身ばかり触りたがるものなんだ、くらいに捉えていたが、実は戸惑いと最後の一線を越えてはいけないという自制心から来る結果だったのかもしれない。
 男は大きく息をついて、隣に崩れ落ちた。こんなんなってるのに入れられへんのはツライわ、といじける様にぼやく。
「それで正解なんとちゃう。セックスは、好きなひととするべきやしね」
 私が笑って言うと彼はまた、ごめん、と口にした。そのごめんは、好きでもない私を襲ったことに対する言葉なのか、単に押し倒したことだけに関しての謝罪の言葉なのか。真意は判らなかった。
「別に謝らんでええよ。ゴメンはこっちやで。酔ってたとはいえ、誘うような真似して申し訳なかったし」
 彼は倒れ込んだまま、隣に寝転ぶ私を見つめた。両手を伸ばしてきて、抱き寄せられる。
うよ」
彼は継ぎ足した。
「ゴム、持って来てへんから出来ひんの」
 真意は判らない。
 この言葉が照れ隠しなのか、本心なのかどうかなんて、私には確かめる術はない。だから、深く考えないことにした。
ま、いっか。こういうのも。
まさかこんな既出の物語にありがちな出来事が、自分の身の上で起こるとは思ってもみなかったけれど。長い人生、何でも楽しまなきゃ損だし。それに、私には足りないものがあることを自覚している。湧かない結婚願望に、意欲のない恋愛感情。でも、周りが次々と結婚し出産を経験していく中、無駄に膨れ上がる自分も家族が欲しいという欲求。不満。焦燥。
昨日も今日も、私とトラオは何も進展しなかった。彼が少し、私の身体に触れて。口づけをしただけ。こういうのって、なんて言うんだっけ。キス友。否、添い寝フレンド、だったか。
たぶん、私には、これくらいが丁度いいのかも知れない。
いま、もし間違いが起きて、妊娠してしまったりしたら。きっと私は、産んでしまうだろうから。




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