* わたしに欲情してください


1.


 特に夢も希望も理想も願望もないんだけど、たまには真面目に考えることもある。結婚について。
気侭な独身時代と違って、やはり何かしら制限が出てくることだろう。仕事は今のまま続けられるだろうか。長年相棒として通勤で乗ってきた単車は手放さなきゃいけないだろうか。毎日飲んでる酒を咎められはしないだろうか。喫煙はやっぱり、止められるんだろうな。
そんなことを漠然と、ぼんやりと、考える。
家事の分担は、実際どれくらい負担になるものだろうか。例えば料理ひとつを例に取って考えてみても不安は無限に広がる。一人分もふたり分も作ってしまえば同じだとか、誰かが食べてくれると思うと作りがいがあるだとか言うけれど、そんなのは絶対負け惜しみだ。だって、自分一人分なら材料が多少傷んでいようと色合いが貧しかろうとちゃちゃっと簡単に作ってしまえるが、人様に食べさすものとなるとそうはいかない。それに、量が増えれば火の通りが悪くなる。時間がかかる。更に大皿と大きめの鍋を出すことになり、洗い物の嵩が増す。ちょっと想像しただけでも、こんだけマイナス要素が出てくるのだから頂けない。更に家事は料理片付けだけではない。掃除や洗濯なんかもある。洗濯物なんて今は一人分だから三、四日分溜めてから回しているが、これが二倍、三倍の量で増えていくとなればほぼ毎日洗濯しなきゃならないだろう。量が増えれば干す時間もかかるし、取り込んだあとの収納時間だって二倍。
人生の時間は誰にでも平等に振り分けられているというけれど、この家事労働の時間を今の生活の中からどうやって捻出すればいいのか検討もつかない。だって、今ですら家でまったりゆっくりしている時間なんて無いに等しいのに。テレビだって見てないし、遊び歩いているわけでもない。午前五時に起床して、ラジオでニュース速報とウェザー・インフォメーションを聞きながらお弁当と夕食を作って洗濯物を干してから出勤し、残業をこなした後で仕事に必要な資格試験の勉強をして帰宅する。朝作っておいた飯を無音の中なるべく短時間で食べ終えて、シャワーを浴びてビールを飲みながら翌日の準備をしたら、もう深夜二時だ。あっという間に一日の時間は過ぎ行く。平均睡眠時間は三時間未満。これ以上は削れない。時間がない。唯一時間が出来るとしたら休日になるが、その唯一の安息の時間まで犠牲にしなきゃ務まらないのが妻なのだとしたら、絶望だ。世の兼業主婦は一体どうやって時間を作り出しているのだろう。
ジェンダーギャップ格差の少ない欧米諸国ですら、フルタイムで働く夫より稼ぎのいいキャリアウーマンである妻の家事労働負担は全体の七割だというのだから、最早どこにも希望が見い出せない。先進諸国の中でも性差社会の今の日本じゃ、九割の家事を妻がやって当たり前という構図であることが間違いないのだから。結婚とは人生の墓場なんて言うけれど、よく言ったものだよ。あれは、女性のためにある言葉だと近頃はつくづく思う。
なんてことをちらっと言ったら、あんたのその立派で細かいシュミレーションの中には旦那がひとつも出てこないな。なんて既婚友人に指摘された。そんな飯炊きババアみたいな生活送るために結婚するのなら、そりゃ絶望だろうよ。と。
確かに私の想像はリアルじゃない。結婚を仮定しての妄想なのに、相手が出てこないからだ。その辺の思考が乏しいのは、ある意味仕方ない。だってずっと恋人は居ないわけだし、理想の男性像だって特には無いから。
けど。どんな相手だろうと、私の想像をまるまる覆すような男は日本には生息してないと思うわけで。この歳にもなれば自分以外の周りの友人は男女ともに大概結婚してしまっているわけだけど、女友達からは大抵家事育児をやらない旦那の愚痴しか聞かないし、男友達は結婚してから生活能力が無くなった話ばかり耳にする。一人暮らし時代は掃除洗濯はそれなりにやってたはずだし、料理だって毎日作らなくても多少はやってた筈なのに、結婚後は一つもしなくなった、と笑って口にするのだ。
愛があればなんとやら、なんてのは妄言だ。たとえそれがあったとしても、この先何十年とその自由にならない労働に縛られるくらいなら、結婚なんてしないほうがいい。それでも実際は多くの人が結婚をしている。一体何故だろう。そこにあるメリットってのは何なんだ。
稼ぎの多い人と結婚すれば裕福な暮らしが手に入り、相手が家事育児を全般的に負担してくれれば自分の時間が増える。老後寂しくならないように、なんてのはアテにならない。離婚、死別、病。そんな先に二人が一緒にいられる保証なんてのは全くない。それに、人は死ぬときはいつもひとりだ。
だったら、結婚しなきゃ得られないものって何だろう。いや、もっと身近な線で考えてみて、ひとが恋人を求める理由って何だろう。
そういえば、私だってたまに彼氏が欲しくなる時がある。でもすぐにどうでもよくなる。理由は、マメな連絡とデートの約束をするのが面倒だと感じるからだ。だったらやっぱり欲しく無いんだろ、となるが、でもやっぱり異性と一緒に居たい時がある。理由は簡単。本能だからだ。動物としての三大欲求のひとつである性欲が満たされていないから、そう感じるんだ。そうか。それなら納得できる。家事負担が倍増しても、休日の自由な時間が減っても、結婚して夫を得る最大のメリット。それは、セックス出来る相手を得ることだったんだ。
すっきりしたところで起き上がった。
畳の上に敷いたシングル布団を見下ろす。微動だにしない布団の盛り上がりを見て、呑気なものだなと思う。台所へ行って、昨日使ったグラスを二つ洗い、歯を磨く。そして今洗って伏せたばかりのグラスにさんぴん茶を注いで一口飲んだ。
「僕にもちょーだい」
耳の辺りで男の声がした。背後から腰に手を回している。その手をぴしゃりとはたいて、もう一つのグラスに茶を淹れる。
「暑い。どけ。あと、今から出勤だから早く帰れ」
 けけ、と笑ってグラスを受け取ったその男は一気にそれを飲み干してから言った。
「ツンデレやな、
蛇の目サンは」
 根拠の無い自信に溢れた物言いに、イラっと来る。さっさと服を着て帰る支度をして欲しい。
「いつどこにデレ要素があった」
の上では抵抗されへんかったもん」
「・・・あぁ、」
 そんなこと。
そりゃそうだ。恋人いない歴、もうすぐ十年。もちろんそれ以来ご無沙汰。性欲は多少はあれど、恋愛自体はする気になれずだらだらと無駄に二十代を過ごし終えて三十路に突入。そもそも結婚する気もないのに恋人なんか作ったら相手に失礼、と思うと益々気後れしてたところで、出逢った。こんなドラマや漫画の物語の中の出来事みたいなチャンス、滅多に無いと思ったわけだから、抵抗なんてするはずがない。
「セックスしたかったから、こんな得体の知れない男を部屋に上げたわけやからな」
「正直者やなぁ。ってか、得体の知れないって。酷いやん。昨日教えたやろー」
確かに昨日、いろんな話はした。名刺も貰った。でもそれは、二軒目に入ったランパブでの出来事。酒の入った状態で、ましてや夜のお店の中でした話をマトモに信じるほど私は莫迦(ばか)ではない。
「じゃああんたはウチの名前を知ってるん、」
 へ。と男の表情が止まる。
「行きずりの相手やから丁度よかったんやろ。お互いに」
 これは誘導尋問だ。状況的に、違うと言いにくい。私の言葉を否定してしまえば、関係を今後も続けなければならなくなる。男は基本的にロマンチストな生き物だから、仮初でもアイがあるふりをしたいんだろうけど。
そうだね。と無理やり言わせて玄関に追いやる。
名前なんて教える気は無い。だって私、あなたに名前で呼ばれたくないもの。




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