* それを、失くさないために。


2.


 デスクトップのモニターの周りは、すぐに色とりどりの付箋紙でいっぱいになった。
 本日のトゥ・ドゥ・リストに、パソコンの起動TDに、品質管理ソフトのパスワードに、単なるメモ。日本語の物もあれば、ハングルの物も半数近くある。ストレスが溜まっている証拠だ。
 机上が片付いてない人間は、仕事の出来ない人間の象徴である、というのを何処かで聞いた気がする。そろそろ片付けなければいけないのかもしれない。
「それ、何て書いてるんですか」
「え、」
 ハングルで書かれたメモを剥がして捨てようとしたとき、通りかかった女性社員に声を掛けられた。咄嗟に、文字を指で隠そうとしてしまう。
 いや、読まれた訳じゃない。慌てるな。自然な言い訳を考えるんだ。そもそも、この人はハングルを読めないから聞いてきたんだ。
「工程ソフトのパスワードですよ」
 にこり、と微笑んでその付箋紙を剥がし、丸めてゴミ箱に捨てた。
「なるほど。母国語を、暗号みたいに使ってるんですね」
「暗号というか、こうして日常の中でちょっとずつつ使うことによって、勉強してるんです。母国語と言っても私は在日三世なんで、読み書きは出来ないもんで」
 嘘じゃなかった。ハングルを覚え始めたのは入社した後だったし、今でもまともに韓国語を喋ることは出来ない。どこの所属か覚えても居ないその女性は、へぇ、とたいして興味も無さそうに相槌を打って、話題を切り替えた。
「そういえばジョンさん。来週の職場案内、誰かご指名ありますか」
「ご指名、とは」
「誰か気心知れた方とかがこっちにいらっしゃるなら、その方と調整しておきますよ」
「あぁ、調べておきます。ありがとう」
 ほっと、内心安堵の息を吐く。深く突っ込まれなくて、助かった。
 基本的に他人のデスクを覗き込むような暇な連中は早々居ないが、この状況は油断し過ぎなのかもしれない。おれは、その場で感じた怒りやストレスを相手にぶつけないように、紙に書いて発散するようにしていた。最初は日本語で書いていたのだが、そのメモ帳を一度落としてしまったときは随分肝を冷やした。幸い、メモは自分で見つけることが出来たが、それからは万が一誰かに見られてもすぐには判らないようにしようと、慣れないハングルを使うようになった。これなら秘密も隠せて、言葉を覚える勉強にもなって一石二鳥だ。そんなバカなことを思いついて、今に至る。
 メールソフトを立ち上げると、新着表示があった。塩谷大逵からだ。共有シートには、今期新作商品がリストアップされたエクセルファイルがある。
 開いてみると、百件余りの商品名と材料名、コストなどのデータが羅列された表があった。タブの二ページ目には、種類ごとに分類されたテーブルと、合計価格。
 データを集めたのはおれだし、これは二人の仕事の一環だけど、これだけの量をたった一日でまとめたのかと思うと素直に感心した。この種類ごとの分類やコスト合算は、マクロで拾ってきたものを自動集計しているんだろうか。
「そんな訳ないでしょ。一日で、そんな手の込んだこと出来る訳ないでしょうが」
 ふと沸いた疑問をそのまま塩谷に言ってみたら、こんな答えが返った来た。
 おい。何でそんな喧嘩腰なんだよ。
 怒鳴り返したいのをぐっと堪えて、メモを手に取る。
 ふつうに言えばいいだろ。ふつうに。喩えばいま質問したのが、前田今日子だったらお前はどう答えた。「マクロ組むなんて手の込んだこと、流石に一日じゃ出来ないよ」とか言って笑ってたはずだろ。その、いつものハリボテみたいな笑顔で。何でおれには、そう突っかかるんだ。
 いや、単に今日は、虫の居所が悪かっただけかも知れない。家族帯同で転勤してきて、塩谷だって相当のストレスは抱えてるはずだ。嫁や子供に当たれないから、先輩であるおれに当たってるだけかも知れない。そうだ、これは単なる八つ当たりだ。
 そう思いつつ、ペンをメモに走らせる。
 
 こんな、口にも出せないこと、つらつらとよく書くよ。
デスクに並べて貼ったその文字を改めて眺めていると、滑稽に思えて笑えて来る。
 一度文字にして書き出してしまえば、多少はスッキリする。その、吐き出したストレスの分だけ自分が頑張った気がして、文字をデスクに並べていた。
 気分転換に、既読メールの整理でもしよう。社内報のメールマガジン、他部署の人事異動通信、関連子会社の設備点検の日程。これらは未読のままチェックを入れて、ゴミ箱行きだ。そんな中、個人名の差出人に目が留まる。
「金山、こっちに来るん待っとったで。落ち着いたら、飲みに行こうや。コンプライアンス整備事業室、4課、木嶋祥次」
 入社四年目まで、同じ梅雨アイテム担当でお世話になっていた木嶋さんからだった。三年前、彼は出向で先に三重工場入りをしている。今は、コンプライアンス整備事業室に居るのか。というか、これは一体どんな仕事をする部署なんだろう。随分と、前の仕事と毛色が違う気がする。
 デスクトップに並んだ、色とりどりの付箋紙が目に入る。その、ハングルと日本語の比率。
 男が、職場で若く見られることにも、面構えが二枚目に見られることにも、何のメリットも無い。むしろ、損することばかりだ。こっちに来て、何度おれは塩谷の後輩に間違われた。年相応にも見られず、八年目らしい仕事も貰えず、慣れない愛想笑いをしてたら課長には変なあだ名を付けられて、それが女性社員の間で板についてしまっている。何だかみんなに、バカにされているような気分だ。
 もう、我慢の限界だ。
「木嶋さん、すぐに行きましょう。今日でもいいです」
 挨拶文もそこそこに、勇み足な文章を打った。失礼でも何でもいい。きっと、同じ釜の飯を食ってきた木嶋さんなら、この気持ちも判ってくれる。そして今、違う土俵で勝負をしている彼なら、この気持ちの解決策だって、きっと知っている。
 送信ボタンを押したら、思いっきり深呼吸をした。デスクワークで凝り固まった身体をほぐすようにして、目の前のパソコンモニターを眺める。色とりどりの付箋紙。その、ハングルで書かれた罵詈雑言。
 並んだそのストレスをぜんぶ剥がして、丸めて捨てた。そして、新しく大きめの付箋に文字を書いて一番見える位置に張り付ける。
 
 そう。おれは、その何かのために、こうやってもがいてるんだ。




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