林部屋に戻ると、何だか空気がピリついていた。マルさんが居ない。シューが横になっている。で、パクが帰っていた。間が悪い。こいつらを、ふたりきりにしてはいけない。
五畳一間の、狭い和室。入って右手にやっすい二段ベッド、その向かいには普通のシングルベッド、間に空いた隙間にも、布団が敷かれている。机なんてもんは無い。あるのは、寝床だけ。ちょうど、小学五年生で行った、林間学校の合宿施設にある寝所みたいな感じだ。寝台列車も、こんな感じなのかもしれない。ただでさえ狭い部屋が、密集した布団に圧迫されていて、とにかく狭い。
その、異和感たっぷりの二段ベットの下段では、パクが寝転んだままバリバリと菓子を食いながら少年誌を広げている。友情やら努力やらがポリシーに掲げられている雑誌で、おおよそパクの精神からは程遠い。面白いと感じるんだろうか。疑問だ。
ぎし、と二段ベッドが軋む音がして、パクがわざとらしく舌打ちをする。
「おい、おれがいる時にシコるなやッ」
「シコっとらんわ、ボケッ」
「じゃあベッド揺らすな」
またパクは、無茶を言う。立て付けの弱い二段ベッドでは、寝返りを打っただけでも少々揺れるのは仕方ないのに。このふたりはどうもウマが合わない。何がそんなに気に入らないのか、顔を突き合せれば必ず喧嘩をする。理由なんて特にない。
上段では、シューが背中を向けて寝転んでいた。そのままの姿勢で、パクに怒鳴り返している。殆ど動かない。いや、正確には動けないのかも。
「ちょっと、失敬」
おれは、軽くパクに断りを入れて、上段によじ登った。
「シュー」
顔だけ覗かせて呼んでみるが、返事がない。シューの頭を眺める。半分以上の毛が白髪で、白と黒の斑になった頭を。手を伸ばして、頬っぺたをつまんだ。
「イテテテッ」
仰向けになった顔面は、青痣と擦り傷だらけになってた。ちょうど、つまんだほっぺの口の端が斜めに切れていて、赤い肉が見える。いかにも痛そうだ。
「全治一週間、てとこかな」
「三日で治る」
「ムリ無理。だってお前、栄養足りてへんやん」
おれは笑って、梯子から飛び降りた。ろくな飯食ってないんだから、治りが早いはずがない。後ろの、半分開いた押入れの上段に顔を突っ込み、衣類や段ボールがごちゃまぜになった中から、くすり箱を取り出す。中には、半年ぐらい前におれが万引きした、オキシドールと軟膏と絆創膏がある。
「シュー、降りてこい。消毒したるわ」
言いながら、シングルベッドの枕元、窓の桟に置いてあるボックスティッシュに手を伸ばす。掴んでみると、中身がスカスカだった。流石に、こんなデカい物はパクれない。今度、買ってこなければ。
シューの返事がない。
「早くしろって、ガキとちゃうんやから」
「いや、ガキやろ」
「ま、違いないわな」
嫌味で言ったつもりかもしれないが、パクの冷静なツッコミに思わず頷く。おれの言ったガキってのは、小学校低学年までのイメージだったが、世間一般からすりゃおれたちみんなクソガキに違いない。
ようやく、シューがのそっと起き上がった。天井に、頭をぶつけないよう背中を丸めたまま、ゆっくり反転して梯子に足を掛ける。
「汚ぇツラ」
パクが、切れ長の一重を一層細めた。シューはもう相手にするのを止めたのか、奴を無視して下に置かれたベッドの上にいるおれの隣に腰を下ろす。向かい合ったシューの顔は、確かに酷い。口の右端が裂け、左頬に砂利でずった擦り傷、目には青痣。その目のすぐ下には、何かで切ったような、けっこう目立つ古傷の跡。元々整ってもいない顔立ちなのに、その上から腫れと痣と傷で化粧したんじゃ、見れたもんじゃない。
「悪ぃけど、マジで汚いわ。お前いっぺん、便所の鏡で見てきたら」
「もう見た。知っとるわ」
「あ、そう。で、いくら貰ってこの顔作ってきてん」
遠慮なくオキシドールをシューの顔にぶっかけて、ティッシュでごしごしとやった。固まった血液なのか泥なのか判らない、黒い汚れが傷周りに無数にあって、それが余計に汚らしい。荒っぽいおれの手当てに文句も言えないシューは、顔をしかめつつ耐えている。で、暫くして答えた。
「五千」
稲造ひとり分で、この顔か。喧嘩屋ってのは、割に合わない。今日の、おれの稼ぎより少ない。
「ほんまもんの、バカ」
パクが、心底軽蔑してます、という主張を込めて吐き捨てた。アホ阿保と連呼しても大した意味はないが、バカって言葉を仲間内で使うのは相当失礼に当たるから。
「お前さぁ、先月も先々月も、光熱費払っとらんよなぁ。どの面下げて、ここ住んどんねん」
やばい。始まった。パクの口喧嘩の最終奥義、金の話題。
共益費、一人千円。電気代は実費、一人頭約八百五十円。家賃は払ってない。おれたちは、この部屋を間借りしているリンさんに、それだけ払って生活している。テレビもエアコンも洗濯機も風呂もついてないから、電気代も年中たいして変わらない。絶対的に安いはずだ。けど、その安いはずの金すら、捻出するのが難しい。シューにとっては、特に。
パクは、この部屋の間借り人の中では、一番の稼ぎ頭だ。それを時々、こうして鼻に掛ける。
「今月の請求、来とるぞ。電気代、二千七百四十円の三分の一。それに先月までの滞納分と共益費、耳揃えて払ろて貰おうやないけ」
月、せいぜい一万。そこから食費も雑費もやり繰りせざるを得ないシューにとっては、払える額じゃ無い。いま、稲造ひとり持ってても。
と思ったら、その稲造がぺしっ、と宙を舞った。
「おう、払ろたら文句ないやろ、悪かったなァ、遅なってよォ」
「何やねん、その態度ッ」
「まぁまぁ、落ち着けって、ふたりとも」
まずい。シューの元々切れやすい血管がぶち切れそうだ。
「お前、ちょっと先に部屋入ったから言うて態度デカイねん。年一緒やろうが」
「年齢なんか関係あらへん。お前のその稼ぎにならん喧嘩屋っちゅうの辞めて、もちっとマシな商売せぇゆうとんねん」
「なんやとッ。ほな、てめえのやってるシャブの流しは、マシな商売ゆうんかッ」
「少なくとも、お前のガキの使いみたいな喧嘩屋よりかはマシじゃ、ボケッ」
シューが、二段ベッドの下段に飛び込み、寝転んでいたパクを押さえつける。振り上げた左腕を、おれは慌てて掴んだ。両腕で、がっちりと抱き着くように抱え込む。同時に、鈍い音が鳴って目が眩んだ。額を、ベッドの上段の縁に打ち付けたらしい。自爆だ。パクは自分を押え込むシューの胸倉を辛うじて引っ張る。
「待て、お前ら、待て。暴れるなって、」
あんまり騒いでご近所さんに通報でもされてみろ。こんな家出少年の巣窟、ポリに見付かったら一巻の終わりやぞ。それでなくても、部屋を貸してくれてるリンさんに迷惑がかかっちまう。
三人とも、荒い呼吸。肩で息をするシューの右手は、組み敷いたパクの握った拳を押さえつけ、振り上げた左腕はおれの腕の中。パクは、おれとシューの身体にのしかかられて、殆ど身動き取れない。そのくせ、鋭い眼光だけは変わらずギラつかせていて、ちょっと口の端を上げたかと思ったら、勢いよく頭を振り起してパッチギをかました。
「アホ、何やっとんねんッ」
シューが、布団の脇に頭を打ち付ける様にして倒れた。呻いている。思いっきり、パクの頭突きが命中してしまった。おれは、一層しがみ付いた腕に力を込める。パクは、喧嘩においては素人だ。けど、シューは違う。こいつが本気を出したら、手が付けられなくなる。これ以上暴れられたら、おれたちふたりでは止められない。
「てめぇ……」
シューが呻く。聞いたことのないような、低い声。もう、ダメかもしれない。
突然、ドンドンドン、と激しい音が響いた。振り返ると、隣の部屋のジーサンが玄関口に立っている。どうやら、開いたままのドアに、握り拳を打ち付けたみたいだ。
「電話」
不機嫌な声でブツっと言った。あからさまに怪訝な面で、部屋の中とおれたちを眺めている。当たり前だ。部屋の狭さに対する寝床の多さも去ることながら、現在、男三人が同じ布団の上で取っ組み合いをしているのだから。
「すんません、煩くして」
「お宅ら宛てに、電話来とるで」
「え、誰から、」
「名乗らんかったから、知らんがな。若いねーちゃんからや」
辛うじて、受け答えが出来た。ジーサンは、この部屋宛てに電話が掛かって来たのを取り次ぎに来たらしい。
「早よせな、切れるで。相手さん、待たしてんやからな」
ジーサンはそれだけ言うと、さっさと自分の部屋に戻った。ドアの閉まる音。
「おれが行く」
シューが立ち上がり、廊下に出た。喧嘩の幕引きの合図みたいだ。頭を押えながら、壁伝いに歩いて行く。
この部屋に電話は無い。家主のリンさんはほとんど家に居ないため、電話を引く意味が無いし、そもそも電話加入権が高すぎるらしい。アパートの共用電話は、廊下の端の階段脇にある。縦長で四角い、硬貨投入口の付いた赤い公衆電話。平成のこの世に、まだこんな電話を廊下に置いているアパートなんて、そんなに無いんじゃなかろうか。
「エンドウは、シューを甘やかし過ぎや」
パクが、額をさすりながら仰向けになった。自分のやった頭突きが響くみたいだ。そりゃあ、あんだけ全力で頭ぶち当てれば、当てた方も当てられた方も相当痛い。
「おまえはシューに突っかかりすぎ」
仲良くしろとは言わないが、いちいち揉めるのは勘弁してほしい。
「それに、今月から支払いは四等分や。マルさんにもそろそろ出して貰わな、平等やないやろ」
「そうか。マルさん、もう二ヶ月目か」
「すぐ出て行くか思ったけど、案外居ついてはるしな」
坊っちゃんよろしくなセンター分けの整った髪形に、穏やかそうな相貌でこの部屋に寝泊りしているマルさんは、おれたちの中でも異質だ。パクやシュー、この部屋の持ち主のリンさんみたいな荒っぽさは無い。こないだ部屋で会ったときなんか、小難しそうな文庫本を読んでいた。
「あの人、普段何してるんやろ」
「賭け麻雀やろ」
「それ、ホンマかな」
「さぁ」
本当のところなんて、どうでもいい。この部屋に居ついてしまってる時点で、こっち側の人間であることは違いない。
シューが戻って来た。二段ベッドをよじ登り、自分の寝床に横になる。
「電話、誰からやったん」
「判らん。無言で切れた」
「イタ電か」
「わざわざこの部屋呼び出してか、ないやろ、それは。出た相手がシューやったから、切れたんとちゃう」
「なんだそりゃ」
「間違ったと思ったんやろ、リンさんや無かったから」
この部屋はリンさんの部屋だ。それ以外の居候に、電話なんか掛かってくるはずがない。
パクが、機敏な動きで上体を起こした。ベッドから這い出て、押入れの上段に頭を突っ込む。
「エンドウ、風呂入りに行こうや」
パクが銭湯に誘ってくるなんて珍しい。そうやって一旦シューと離れて、湯にでも浸かってスッキリするのは賢い。
「お、いいねぇ。轟温泉、」
「いや、生駒湯」
一番安い轟温泉を蹴ったということは、洗濯がしたいらしい。生駒湯には、コインランドリーが付いている。
「ほな、こないだまで着てたシャツも持ってくわ。シュー、お前のも洗って来たるから、上下脱げ」
「またそーやって甘やかす」
「ええやん、ついでなんやから。堅いこと言いな」
シューが、言われるままにTシャツとジーパンを脱ぐ。脇腹の周りにも、デカイ痣が出来ていた。もう黄色くなりかかっている。二段ベッドの上段から少し身を乗り出して、スマン、とこっちに服を寄越した。肩口には、丸い根性焼きの古跡が三つ並んでいる。星座みたいに。
「おまえも、着替え持って行けよ」
「え、おれ臭う、」
着ていたTシャツに鼻先を近づけて、くんくんやった。よく判らない。でも、三日、いや四日くらいは着てる気がする。そろそろ洗い時なのかもしれない。
さっきから言おうと思っててんけどな、とパクが溜め息をついた。
「今日のお前、ザーメン臭いねん」
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