やっぱり、シューだった。内環沿いにある、潰れた銀行の裏路地がなんだか騒がしい気がしてこっそり覗いてみたら、これだ。喧嘩だ。数人が入り乱れて拳を振りかざし、どつき合っている。どうやら道具は使っていないらしい。まだ。
中学生らしき輩が、八人いる。そのうち五人は黒の学ランで、あとの二人は焦げ茶色のブレザー。シューはひとりだけ制服じゃないから目立つ。ジーパンは、ダメージジーンズみたく穴が開いてボロボロになっていて、あれ一着しか持っていない。それに、変な漢字Tシャツ。襟元が伸びきっている。縞のタオルをバンダナみたいに頭に巻いて、散髪していない長めの襟足がところどころくるんとタオルから飛び出ているのが、女の子みたいでちょっとかわいい。顔は不愛想な三白眼で、全然かわいくないんだけど。
学ランは細長いのが四人と、悪趣味な紫色の髪のデブがひとりいて、デブは様子見なのか殆ど動かず、違法投棄された事務用デスクの上に胡坐をかいて目の前の乱闘を眺めている。あの制服はたぶん、淀東だろう。ここいらの中学で一番ガラが悪いので有名な。焦げ茶色は西京。あの制服は珍しいからすぐに判る。黒か紺が主流の学生服の中で唯一の茶色。陰ではゴキブリ、だなんて呼ばれてバカにされてたりする。おれは半分崩れたコンクリートの塀の上から目だけ出して、喧嘩の行方を見守っていた。いよいよヤバくなったら助けてやろう。もちろん参戦とかじゃなくてね。内環まで走っていって、人を呼んでやる。
背はそこそこあるが、シューの痩せっぽっちの体型は見ていて危なっかしい。けど、その細い腕から繰り出される右ストレートは案外重い。物体の重心を的確に捉えた気持ちのいい音がする。風を切る音。あんなの、そうそう出せるもんじゃない。
淀東の一番背の低い、けど一番デブの紫の男が焦げ茶色のブレザーふたりの髪を後ろから次々に掴み、地面に叩きつけた。見惚れるくらい、綺麗な放物線を描いてふたりの頭蓋が地面に吸い込まれる。西京はそれぞれあさっての方向の学ランと対峙していたもんだから、不意打ちを食らった。脳震盪を起こしたように呻き、すぐには起き上がれそうもない。デブはそのまま進んでシューの前に立ち塞がる。他の学ランが、それを囲んで放射線状に広がった。
シューは、西京の方に付いているらしい。形勢は、淀東に傾いていた。そら、数の上で勝ってるんだから当然っちゃ当然だが、バカみたいに強いシューが二人ぐらいの人数差で応える訳がない。つまり、西京のふたりが弱いんだ。弱いくせに喧嘩なんかしようとするから、こうなる。だいたい、金で助っ人を雇ってまで喧嘩を買う意味がよく判らない。
そろそろ限界かな。よじ登った塀の背後をちらっと見遣る。地べたには、砂利のようなコンクリの残骸。飛んだら、音がしてばれるかも。
「高見の見物か。ええご身分やなぁ」
急に、淀東のデブが大声を出した。シューが顔を顰める。周りの学ランも呆けた顔のまま。
何の話しだ。と思っていると、デブと目が合った。
「降りて来いや、ドチビ」
「あれ、バレてた」
学ランたちが一斉にこっちを見る。シューも一瞥をくれておれの存在を認識した。表情は変わらない。あれは別に、呆れている訳でも助けに入らなかったことに対する疑心でも不満でもない。
「へらへらすんなやっ」
ひょろ長い学ランのひとりが怒鳴る。べつに笑っているわけでは無い。よく言われるけども。
「おう、びびっとンか、ワレ」
「早よ降りて来いやっ、こいつらの仲間なんやろが」
こいつら、ってのは違う。伸びてる制服の奴らなんか、知らん。
「ちゃうちゃう、おれのツレはその斑頭だけや」
斑頭ってのは、縞のタオルのことではない。タオルの端からはみ出てる、白髪交じりの毛のことを言っている。
「御託はええから早よせぇ。いてまうぞ、こらッ」
「そら、かなんわ。ムリ無理。おれ、喧嘩は専門外」
緊張感のないのんびりした調子で返して、へらっと笑ってやった。ここは、意識して。
連中はドタマに血が上ってるから、おれの態度に相当ブチ切れている。
「何さらしとんねん、ワレェッ」
罵声で勢いづいた手前の学ランが俺に向き直った瞬間、そいつは地面に突っ伏した。鈍い音と共に。鮮やかな、朱い影が横切る。
「おらおらおらおらおらおらおらおらららッ」
明るい雄叫びを上げて、朱影は鉄パイプを振り回した。イチ、ニー、サン。あっという間に三人。けど四人目のデブの繰り出した肘鉄で、得物は宙に舞った。
「ああああーあらら、ら」
言いながらも、想定内のような余裕のある声。鉄パイプが、乾いた音を出して地面に転がった。何だ、案外軽いらしい。アルミかもしれない。
「何や、てめえ」
最早デブも、怪訝な顔をしている。
「ケケッ。み、見て判らんかぁ。ど、どどど洞成中の、レッドドラゴン、やんけ」
「あぁ、何ゆうとんねん、ワレは」
名乗った程度で怯むデブではないらしい。むしろ、酷いドモリで聞き取れなかったのかどうかは定かでないが、全く聞きなれない名だったみたいだ。
ヘンな喋り。割りと小柄な体躯に、白い肌。それに映える、明るい朱色の短髪。
シャケだ。
奴は、相変わらずぺらい夏の学生服を着崩している。襟足のヤン毛だけ伸ばした朱髪が、薄い顔を辛うじてヤンチャに見せているようだ。
おれもよじ登った塀の上から内側へ飛び降りた。
シャケはほらよっ、といった感じでデブの顎目がけてパンチを叩き出して、アッパーカットを決めた。と、思ったら、シューが脚を狙って打っていた。ようやくデブも転がる。そのまま腹に三発蹴りを入れる。これで暫く起き上がれない。
おれは、近くでまだ呻いている焦げ茶色のブレザーをぴらりとめくった。内ポケットに、中学生が持つに似つかわしくないブランドものの財布。中身の夏目サンだけ全員抜き取り、今度は向かいに転がる学ランの尻からマルキンのボックスを抜いた。一本取り出し、咥えて火を点ける。
「まずッ」
思わずむせた。すっげぇ不味い。いつも吸ってるライハイと同じタバコとは思えない。
「い、い要らんのやったら、くれや」
「ほらよっ」
シャケが言うからそっちにぶん投げた。
「おい、もうずらかるぞ、」
シューが、いつものしかめっ面で振り返った。もう既に、内環側に抜ける表へ向かって歩いている。へーい、という間の抜けた返事をしたシャケの後ろに、おれも続いた。
内環道路に出ると、激しい騒音と排気ガスの渦に呑まれた。さっきまでと全然違う。別世界みたいだ。路地裏の出来事はウソみたいに感じる。
「お前、得物でどついたりして、あいつら大丈夫か」
シューはその事が気になってたらしい。確かにおれも、シャケが飛び出してきた瞬間は不安が過ぎった。シャケはけらけら笑う。
「だだいじょうぶ、大丈夫ぶ。かかかか軽、いし、脳天ん、狙っとらんから」
当たり前だ。たかが他人の喧嘩の助太刀で人殺しなんかした日にゃ、目も当てられない。おれは懐から新渡戸稲造をチラリと覗かせた。
「腹減ったし、金も入ったし、ラーメンでも食い行こうや」
「お奢りか、」
シャケが目を輝かせて飛びつく。それを横目でシューは、アホ、と窘める。
「気付かんかったんか、アホ。ありゃ、オマエの金やんけ」
「えぇっ」
酔狂な奇声を発し、シャケは慌てて手前の左尻をまさぐった。勝った。おれは高らかに笑う。
「せや、シャケの奢りや。センキューな」
「アアアアホかワレ、かか返さんかいッ」
「スられる方が悪いんじゃ」
今度は自分の懐から出したライハイに火を点ける。またシャケが奇声を上げる。
「お、おま、それッ。おおれのジッポやんけ」
「え。あぁ、いつの間に。気付かんかったわ、スマン」
これは本当に気付かなかった。手癖ってのは、本人の無意識下でも働いているから時々困る。お陰で、いつの間にかポケットの中はライターでいっぱいになっている。いつも。
結局、三人で内環沿いの博多ラーメンに入った。勿論シャケの金で食う。おれとシューはここぞとばかりに腹いっぱいになるラーメンと焼き飯のセットと餃子を注文し、更にトッピングの肉盛りと単品のエビチリも追加した。苦々しい表情で割り箸を割ったシャケが、そんな量チビの癖に何処に入んねん、と悪態を吐く。いつもの酷い吃音で。おれは今更、体格のことなんて気にしていない。チビはチビで、事実なんだからしょうがない。まだ十四だからこれから伸びるのかも知れないが、現時点では同年代の誰よりもタッパが無い。けどそれを逆手にとって利用してやるくらいの気概がないと、ここでは生きていけない。
注文した料理が運ばれて来て、しばらくは全員、無言で食べた。つゆに浮かぶ、ラーメンの麺が見えなくなって餃子の皿が空いた頃。突然、ポツンと、シューが不思議なことを言った。
「エンドウって、何でも盗って来るけど、ホンマは何にも欲しないような感じやな」
え、なんて。何でも盗るのに、何にも欲しくないみたい、だって。
随分、イデオロギーなことをおっしゃる。シャケも、何言ってるか判らないドモリと早口で、シューに激しく同意した。
「そんなこと無いで。欲しいもんくらいあるわ」
「ほぉ。じゃあ喩えば、ナニ」
「喩えば、」
シャケが大袈裟に、テーブルの向かいから身を乗り出してくる。隣に座るシューは質問しといて聞いているのかどうかすら怪しい無表情。でも、ちらっと目線を遣って、おれが喋り出すのを確認しようとする。
もし。
この世界の事象すべての中から、ひとつだけ願いが叶うとしたら。おれは、何を願うだろう。
腹いっぱい飯が食えること。布団の上で眠りに就くこと。安定した仕事が手に入ること。自分の部屋を持つこと。何も考えず呑気に学校に行くこと。家族がいること。いや、そんな、しょうもない事なんかじゃなくって。もっと、根本的なところで、手に入れたいものがある筈だ。喩えば、シュー。こいつなんかは多分、生まれ変わったら女になりたい、とか言うはずだ。はっきり口に出して言ってた訳では無いが、シューは男に生まれた所為で人生損ばかりだと感じている。女はいいよ。とか、女なら云々、という言い回しで不満を漏らしてたのを聞いたことがあるから。髪が、目にかかって肩まで伸びてうっとおしいのに、それを切らずにタオルで縛ってるのもそうだ。何となく、女になりたいんじゃないかと思う。勿論、髪を伸ばしたくらいで女っぽくなるわけでなし、そもそも口も態度も行動もガサツでカマっぽさのカケラもないわけだけど。本当に思ってるわけでは無くって、心の隅で。精神的に。
シャケは、特に何も望まなさそうだ。こいつはおれたちとは違う。シャケとはただの喧嘩仲間みたいなもんで、詳しいことはよく知らない。名前も聞いたことがない。けど、いつも制服を身に着けて昼過ぎから顔を出すあたり、案外マジメに学校にも通っている。掏りも盗みもカツアゲもしてる様子もないのに、いつも金を持っている。親から貰った小遣いに違いない。世の中に不平不満を漏らす様子もない。生まれつき持ってる吃音症だって、当の本人は困っている様子もなさそうだ。コンプレックスがあるなら無口になりそうなものを、こいつは喋りたがり屋で、他人が聞き取れないような早口でマシンガンのようにべらべら喋る。困っているのは、それを聞かされるこっちの方だ。好きでやってる喧嘩だって、地元じゃナントカっていう異名まで付いて満足げだし、面白おかしく生きて、人生楽しそうだ。
対して、おれはどうなんだ。別に、これと言って不満があるわけでは無い。出来れば、楽して稼いで飯にあり付きたいとは思う。けど今更、ふつうの十四歳みたいに家から学校に行って勉強したいとは思わない。でも、時々無性に判らないことがある。それが無い事で、人生損しているんじゃないかって思う。おれにもそれがあれば、今だってこんな場所で空気を吸ってないで、もうちょっとマシな生活をしてたんじゃないかって。
「かかか考えても、デ、出てけぇへんのやろ。むむ無理すんなって」
シャケが笑った。口の中でぐちゃぐちゃになった餃子が丸見えで、下品極まりない。
シューは何も言わない。こいつは多分気付いている。いつも笑っているように見られるおれが、何にも考えていないバカじゃないってことくらい。こんな生活が、いつまでも続くわけがない。
「言うてもどうにもならんわ、こんな喩えバナシ」
残った最後のエビチリを口に放り込んだ。あ、とシューがおれの口元を見る。大皿の料理なんて食ったもん勝ちだ。可笑しくもないのに、またシャケが笑った。賑やかなやつだ。感情豊か、って言や聞こえが良くなるだろうか。面白そうなことがあったらわくわくして、仲間が集まれば箸が転げただけでもゲラゲラ笑う。こいつは人情にも厚いから、誰かがやられてたらすぐに駆けつけるし、今日だって一銭のトクにもなんないシューの受けた喧嘩に助太刀した。こういうのが、たぶんちょっと、羨ましい。おれにも、シャケの半分くらい備わっていればいいのにね。
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